アストンマーティン、ジャガーからデロリアンまで!名だたるメーカーを渡り歩いたエンジニアの波乱万丈な人生とは

Mark Dixon


アストンマーティンでV8を手掛ける


応募したロースビーの面接を担当したのは、アストンのチーフエンジニア、タデック・マレックだった。1966年末、彼は新しいV8エンジンとDBSの開発を統括していた。マレックはキャリアを終えようとしている時期で、「愚かなヤツを見ると許さない」という評判の持ち主だった。幸いなことに、ロースビーとは最初から意気投合していた。マイクは「真の紳士だ」と彼を偲んでいる。 「同じ考えを持っていたからか、とても気が合いました。彼は、私がやりたいことをやらせてくれました。とても楽しかったです」と回想している。

タデックは腎臓がひとつしかなく、視力もあまりよくなかったが、素晴らしいドライバーだった。
「私たちはV8エンジンを積んだDB4とDB5を持っていて、イタリアの彼の家まで行ったものです。驚くべき性能でした。DB5は4基のウェバー・ツインチョークを備えたレーシングV8を搭載していました。ドライ路面でさえ3速でホイールスピンが起こったほどのパワーだったんですよ。とてもエキサイティングな時代でした。テストドライブの9割くらいは私がやっていましたね。高速コーナーやバンピーでキックバックが試せる、素晴らしいテストルートでした」

「しかしもちろん警察の目もありました。警察の態度は、『お前はお前の仕事をしろ、その代わり私は私の仕事をする』といった感じでしたね。それからは70mphに制限されるようになりました。ある時、テストコースのMIRAからの帰り、高速道路を下りてきて、かなりゆっくり走っていたと思います。たぶん90km/hくらいだったでしょうか。巡査部長に止められてこういわれました。『そんなにかっ飛ばして何があったんだ?』スピード違反で捕まったのは、そのときが初めてでした。それからは、平均して7年に1度くらいのペースです。職業病でしょうかね…」

ル・マン・カーを手掛ける


「私のアストンマーティンでの最初の仕事は、V8エンジン搭載のローラ・アストンマーティンT70ル・マン・カーの風洞実験でした。しかし、期待されていたようにはいきませんでした。後ろに巨大なスポイラーがついていて、空気抵抗が非常に大きく、スピードが出なかったのです。フラップをいくつか外して改造したら、ル・マンで205mph(約150km/h)が出るようになりました。当時としては悪くありません」

「エンジンにはいくつか問題がありましたが、ル・マンで起きた問題は想定されていたものではありませんでした。レースチームがプラグの選択を誤って、数周でピストンが焼けてしまったのです。タデックは本当に動揺していました。ファクトリーに戻って、彼はテストベッドで24時間エンジンを回して実験したんです。これには、近所の人たちから苦情がたくさん来ました。とこrが警察署に電話しても、誰も出てくれないんです。なぜなら警察の人たちはみんな向上に見物に来ていましたからね」

当時、直列6気筒エンジンを搭載して発売されたDBSは、風洞実験も効果的だった。
「この車は遅くて、140km/hまで出すのがやっとだったんです。それで風洞に入れたところ、抵抗が大きいことが分かりました。リヤウインドウの上部か下部で気流が分離していたのです。また、フロントエンドのリフトも大きいことがわかりました。高速道路は基本的にまっすぐなのですが、ベルギーのヤーブブーケは1箇所か2箇所のクネクネとしたところがあり、140km/hで走るとそれが顕著になります。フロントが地面から浮いたような感じで、ステアリングが軽くなりすぎるのではないかと心配になるくらいです。そこで、フロントにアンダースポイラーを装着してみました。当時はまだ空力のことをほとんど知らなかったんです。いま思えば恐ろしいことです」

「昔はロードテストカー用に特別なエンジンを造っていました。その頃はみんなやっていましたね。ジャガーは、私の知る限り、200bhp以上出したことはありません」

V8エンジンがDBSに搭載されると、その性能は大きく飛躍した。「V8には、新しいブリコ製の燃料噴射を試していたんです。高速道路で170mphを超えました。みんな怖がるからキャブレターに戻しました」

「ワイヤーホイールは、スポークが緩んでしまうというトラブルが多く発生しました。また、ブレーキもソリッドディスクはオーバーヒートしてしまうので、ベンチレイテッドに変更しました。基本的に車の他の部分は、エンジンの性能にまだ追いついていませんでした」

1969年末、ロースビーはアストンから離れ、トライアンフのエグゼクティブ・エンジニアとして、世界市場向けの全エンジンの設計を担当することになった。結果的に約6年間、トライアンフに身を捧げた。「スラント4とV8を担当し、SD1用のローバー・トライアンフ製直6の90%くらいは私がやったと思っています」

立ち直ったアストンマーティンで腕を奮う


1975年、アストンマーティンは新しいオーナーによって崖っぷちから立ち直ると、彼はニューポート・パグネルに呼び戻された。、ロースビーはチーフエンジニアとしてV8エンジンの改良と、ウェッジシェイプのラゴンダを含む、まったく新しいプロジェクトのエンジニアリングを担当した。



「ラゴンダの最大の悩みは、電子システムでした。当時はまだすべてが粗雑で機械的なもので、すべてが間違っていました。そして、大きなスペースを占拠していました。最初の数台は、みんなでとにかく分かる情報をかき集め、そのうち色々と分かるようになるだろうと思っていました」

「しかし、そううまくは運びませんでした。クランフィールド大学も参加しましたが、彼らは実用的な知識を持っていませんでした。使えない電子部品が山ほど出てきてしまいましたっけ」



ラゴンダは、遅れが出たり、不具合が出たりして悩まされたが、最終的には中東にマーケットが見出された。1977年のヴァンテージは、ラゴンダに比べればもっと簡単で、完全にロースビーの創造物であった。

「標準のV8を改良した後、もっと速いバージョンを造ったら面白いんじゃないかと思ったんです。そこでスポーティなチューニングを施し、380〜390bhpにパワーアップさせました。また、エグゾーストの開発にも時間をかけ、いい音を出すようにしました。私自身は、あまりV8が好きではないのですが、V8とV12の中間のようなサウンドに仕上げることができました。ある夜、フェラーリを追ってアールズ・コートから出てきたときのことを思い出します。 ヴァンテージの音は、通りに美しく響いていました」

「風洞実験では、空気抵抗の低減を図りました。フロントがスポイラーで覆われているため、まるで鉄道のような乗り心地でありながらも、160mphを軽く超えていました。初期のころは、事故のダメージを受けて戻ってくる車が多かったです。みんな自分の車がどれだけ速いかわかっていなかったからですね」

ロースビーは、V8ツインターボを搭載したスーパーカー「ブルドッグ」のプロジェクトも始動させた。

「ベース用の700bhpと、スポーティ用の800bhp仕様の2種類を用意しましたよ。アストンのテストベッドは、たった最大200bhpの車向けに設計されており、苦労させられましたっけ」

しかし、彼はブルドッグが完全に成長するのを見届けていない。当時、彼はアストンマーティンの当時のマネージングディレクター、アラン・カーティスとはそりが合わなかったからだ。「会社は私たち2人のために十分な大きさではなかったし、会社は彼が所有していましたからね⋯」と語っている。

ロースビーがアストンマーティン・ラゴンダに不満を持っていることは、業界内でも噂になっていた。

編集翻訳:伊東和彦 (Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.)

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