アストンマーティン、ジャガーからデロリアンまで!名だたるメーカーを渡り歩いたエンジニアの波乱万丈な人生とは

Mark Dixon

イギリスのベテラン・エンジニアで、ジャガーやアルヴィス、アストンマーティンの設計にタッチしたマイク・ロースビーに話を聞いた。たとえ彼の名を知らなくても、車名を挙げれば、彼の仕事の内容を理解いただけるだろう。



スタートはアルヴィスの見習いエンジニア


「私は、たくさんの素晴らしい人たちに出会い、一緒に仕事ができて、とても幸運でした。素敵な人たちばかりでした…」

マイク・ロースビーの目から、茶目っ気が消えることはない。60年前に出会った女性と結婚し、のどかなシュロップシャーでセミリタイアしているロースビーは、80歳代になった現在も、相変わらず鋭く明晰な人物である。彼は典型的な英国紳士で、教師のようでもあり、正確さにこだわるが、遊び心もあり、上品で控えめな表現も得意だ。

ケネス・マイケル・ロースビー(通称マイケル)はコヴェントリーで生まれたため、この業界でのキャリアは生まれた時点で決まっていたのかもしれない。しかし、父親の仕事の関係で、幼い頃に南ウェールズの田舎に引っ越した。

「父は、ブリティッシュ・ナイロン・スピナーズ社のテクニカルディレクターをしていて、不景気な地域に工場を造りたいといってきたのです。それで、都会から田舎に引っ越し、農業と獣医学にのめり込みました。その間にアンと車に出会い、どちらも私の人生の設計図を変えてくれました」

「1957年、19歳の時、モンマス・スクールを卒業し、実をいえば、それは「無駄な1年」でしたが、アルヴィスにエンジニアの見習いとして入社しました。私は、学問的に目を見張るような成功を収めたわけではなく、両親を不安にさせてしまいました。しかし両親は、私がロータスXIでレースをするためのスポンサーになってくれました。スウィングアクスル・サスペンションのすばらしさを知ることができたのです」

ロースビーは、ウェールズからアルヴィスのコヴェントリー工場までの105マイルの通勤にロータスを使用し、ロータスのよさを初めて知ることになった。 「グロスター、テュークスベリー、イブシャムを通過するルートで、ベストタイムは87分でした。その頃は、道路もずいぶん空いていたんですよ」

アルヴィスの経営陣では、彼がロータスのチューニングに時間を割くことを、喜んでくれた。「それをトレーニングの一環と考えていたようです」と、彼は回想する。アルヴィスは、最高の修行先のひとつとなった。

「ヘルマン・グラバー(アルヴィスにボディを架装したスイスのコーチビルダーの創業者)のような興味深い人たちに出会うことができました。その後、マイク・ダン(フォード、ロールス・ロイス)がチーフエンジニアとなり、私に多くの成長の機会を与えてくれました」

ロースビーは、主に自動車の図面作成の仕事をしていたが、決してその仕事だけに束縛されることはなかった。「テスト走行もたくさん、エンジンの設計もたくさんやりました。直列6気筒は、110bhpから150bhpまで開発しました。200bhpを超えるものもありました。とても楽しくて、いい経験ができました」と話す。

クライマックスに移籍


60年代半ば、アルヴィスが乗用車の生産を終えることになると、ロースビーはシニアデザイナーとしてコヴェントリー・クライマックス社に移籍した。彼は、軍事用の軽量エンジンを開発する小さなチームを率いていたが、レース活動がやはり彼にとっては大きな魅力であった。

「ウォーリー・ハッサンやハリー・マンディ(ジャガーで名作を手掛けたエンジニア)、そしてレース用エンジンのテストとエンジン製造を担当するハリー・スピアーズと知り合いになりました。 その頃、彼らはレース活動を縮小していましたが、私は一度だけ、フラット16を走らせたことがあります」

彼自身のレースキャリアでは、ロースビーはウェバーとウィッシュボーン・サスペンションを搭載した2台目のロータスに進んでいた。
「いいレースができていたとき、グッドウッドで大きなクラッシュを起こしてしまったのです。ピットを通過するときにトラックロッドの端が折れてしまい、そのままマドウィックでバリアに突っ込んでしまいました。チチェスター病院で手当てを受けましたが、脳震盪、擦り傷、ショックで担当医に1カ月の外出禁止令を出されてしまいました。それで結局、それから2年間はレースに出ていないんです」

しかし、再び情熱を取り戻した彼は、アルヴィスの友人であるブライアン・リークと旧友のアラン・リースの助けを借りて、F3ブラバムを組み上げた。
「2、3シーズンはとても楽しくて、表彰台にも上れました。資金も尽きたし、そのころには子供も生まれていたから、ガレージに詰め込んで売ってしまったのです。寂しかったけど、他に面白いことがたくさんありましたからね」



ロースビーがコヴェントリー・クライマックスに入社して1年ほど経った頃、運命は決定的な手腕を発揮した。ある日、友人がやってきて告げた。
「これ、見たか?『コヴェントリー・イブニング・テレグラフ』紙に掲載された、アストンマーティン・ラゴンダの開発エンジニア募集の広告だ」

編集翻訳:伊東和彦 (Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.)

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