「家の庭にプレゼントの新車が置いてあったの。それはドアを開け放った300SL ガルウィングだったわ」|ソフィア・ローレンが愛したメルセデス

HK Engineering

このメルセデス・ベンツ300SLガルウィングは、伝説の映画スター、ソフィア・ローレンがかつて愛用していた車である。ふたつの"スター"のヒストリーを徹底的に調査したマッシモ・デルボがリポートする。



第二次世界大戦中にイタリアが被った破壊と、それによる貧困はまさしく想像を絶するものだった。家族のために食卓に載せられるものはほとんどなく、ただ生き延びることだけに懸命にならざるを得なかったが、それでも労働意欲とよりよい未来への希望は失われていなかった。

希望の星

ドイツでも状況は同じで、産業は完全に破壊され、ほとんどの都市は度重なる空襲で焼け野原となっていた上に、国全体が過去の過ちを繰り返さないように厳しい監視下に置かれていた。そんな瓦礫と残骸の中、戦前のドイツの偉大なシンボルがダイムラー・ベンツだった。だが、戦地からジンデルフィンゲンに帰ってきた工員が見たものは、スーパーチャージャー付の高級車とシルバーアローと呼ばれたレーシングカーがひしめいていた建物ではなく、山のようなレンガの残骸だけだった。何とか破壊を免れた工作機械も、ほぼすべてが貨車に積まれてロシアへ運び去られていた。会社の上層部は復興計画を策定するいっぽうで、工員たちは素手でシャベルを握り、手押し車で工場跡地の片付けに取りかかった。

ほどなく、彼らは被害が少なかった工場を使って米軍のために軍用トラックのメインテナンスを始めたのである。その同じ工場からたった5年後に世界を驚かせる車が生み出されるとは、どれほど楽観的な人でも想像もできなかったに違いない。しかもそれは70年後の現代においてなお、先進技術とスタイルのもっとも偉大なシンボルと見なされているのである。



いっぽう、もうひとつの伝説がイタリアに生まれようとしていた。ソフィア・コスタンザ・ブリジーダ・ヴィラーニ・シコローネは 1934年、ローマに生まれ、ナポリ郊外の下町で育った。15歳の時、彼女は海辺の町キアイアで開催された『レジーナ・デル・マーレ』(海の女王)という美人コンテストに参加、優勝は逃したものの、『ミス・シネマ』トロフィーを勝ち取った。その賞金で彼女は街を出てローマに、後にソフィア・ローレンとしてはるかに有名になる都会に移り住むことになった。

女優として成功するという彼女の夢の第一歩は、美人コンテストとセリフもない端役から始まったが、1年も経たないうちに15本の映画に出演したという。そして1951年、彼女の人生を変えることになる出会いが訪れた。あるコンテストに出場していた彼女に眼をとめたのが映画プロデューサーのカルロ・ポンティだった。その翌日に短い話し合いを持った後、彼女に7年契約を提示したのである。22歳も年上のポンティだったが、間もなく恋に落ちた二人は1957年に正式に結婚、その後の人生のすべてをともに過ごすことになる。1953年、彼女はイタリア映画でクレオパトラを演じ、1954年にはヴィットリオ・デ・シーカ監督の『ローロ・ディ・ナポリ』に出演、さらに1955年には『ラ・ベッラ・ムグナイア』でマルチェロ・マストロヤンニと初共演した。マストロヤンニは彼女のお気に入りの共演者となっただけでなく、私生活でも大切な友人となる。

21歳となったソフィアは、『LIFE』誌の表紙を飾り、ハリウッド進出を果たし、そこでケリー・グラントやフランク・シナトラ、ジョン・ウェイン、ウィリアム・ホールデンといった錚々たるスターと共演した。1960年には『ラ・チオチアラ(ふたりの女)』での演技が絶賛され、カンヌ映画祭やアカデミー賞の主演女優賞をはじめ22もの国際的映画賞を受賞した。

ソフィア・ローレンは燦然と輝くスターとなったのである。 1955年、ソフィア・ローレンはまだ恋人だったカルロから特別なプレゼントを贈られた。「家の庭にプレゼントの新車が置いてあったの」とローレンは後に語った。「それは、ドアを開け放ったメルセデス・ベンツ 300SL ガルウィングだったわ」

もともとはレーシング・スポーツカー



コードナンバー"W198"の300SLは戦後ドイツの復興の象徴だった。手探りのように操業を再開した後、メルセデス・ベンツは自動車界のリーダーとしての地位を徐々に取り戻し、1946年5月には早くも戦前の170Vを基にした商用車の生産を開始、その年の末までに214台を生産したという。乗用車の生産が再開されたのは1947年7月のことで、1045台がその後の6カ月間に生産され、年を追うごとに台数は増えていった。

そこで得た資金を元手に、経済復興に伴う需要に応えるために1951年に発売されたのがW186型300"アデナウアー"。これは現在のSクラスの祖先にあたる。300はアルミニウム製ヘッドを備えた 115bhpの新型SOHC直列6気筒エンジンを搭載、2基のダウンドラフト・ソレックス・キャブレターとフルシンクロの4段ギアボックスを採用していた。このM186 型エンジンは信頼性と耐久性を確保するために、深いウォータージャケットと潤滑系の温度制御、鉛銅合金ベアリング、硬化処理したクランクシャフト、そして吸排気バルブを大径化するためにヘッドとブロックを斜めに結合する画期的なジョイントなどを特徴としていた。



さらにメルセデス・ベンツは、戦前の名声を取り戻すべく、この時期にモーターレーシングへのカムバックを決断する。戦前のグランプリマシンの生みの親として知られていたチーフ・エンジニアのルドルフ・ウーレンハウトは、1949年から乗用車開発の指揮を執っていたが、その彼に新たな任務が与えられた。そうして生まれたレーシングカーがコードネームW194として知られる300SLである。1952年のスポーツカー選手権に投入された流麗なこのクーペは数々の革新的メカニズムを備えていた。とりわけ、アルミニウム合金のチューブラー・スペースフレームと4輪独立サスペンション、左右の小さなガルウィングドアが特徴的だった。これはボディサイドのスペースフレームの高さゆえに一般的なドアを取り付けられなかったためである。エンジンは"アデナウアー"の3リッターエンジンで、3基の2バレル・ソレックス・キャブレターを備え、低いボンネットをクリアするために50度傾けて搭載されていた。



メルセデス・ベンツの新しいレースカーは、ル・マン24時間やカレラ・パナメリカーナをはじめとして出場したほとんどすべてのレースを制するという大活躍を見せたが、そのキャリアは短かった。1954年には直列8気筒エンジンと燃料噴射システムを誇る300SLRが登場したからだ。300SLが引退した1953年には燃料噴射システムとトランスアクスル式ギアボックスを持つ新仕様が開発されていたが、生産される予定はなかった。しかしながら、10台だけ制作されたW194のうちの1台が、アメリカのインポーターであるマックス・ホフマンに販売促進キャンペーンのために貸し出されたことで運命が一変したのである。



SLは凄まじい反響を巻き起こした。米国市場での成功によってメルセデス内部に大きな影響力を持っていたホフマンは、経営陣に300SLを市販するように要求、しかもそれには1000台ものオーダーシートが添えられていたという!

かくしてW198というコードネームを持つロードゴーイングバージョンが誕生、結果的にこの車がセパレートボディを持つ最後のメルセデス・ベンツとなった。燃料噴射システムを備えた3リッターエンジンを積んだSLは1954年に発表されるや大評判となり、クーペ仕様は1400台が生産されたという。 



SLのボンネットやドア、ダッシュボード、トランクリッドはアルミニウム製で、乗り降りを容易にするために採用されたガルウィングドアがこの車の最大の特徴となった。最盛期の1955年には855台が生産されたという。ソフィア・ローレンにプレゼントされた車はその中の一台で、シャシーナンバー" 198.040.5500789"、ボディナンバーは"A198.040.5500768"、エンジンナンバーは"198.980.5500823"で、1955年10月11日に、イタリアのローマおよびラツィオ州を担当するメルセデス・ベンツ・インポーターであるマレスカルキ SpAにデリバリーされている。



イタリアで登録するために必要な正式書類は 10月15日にメーカーから発行されており、"Roma237421"のナンバープレートは 10月28日に発行されている。ボディカラーはシルバーメタリック( DB180)、内装トリムはブルーレザー(タイプ:333)、これがソフィア・ローレンの庭で、ドアを大きく開けて待っていた車である。

世紀の再会は実現せず

彼女のSLは、正式にはカルロ・ポンティの映画製作会社であるソシエタ ATA( Artisti Tecnici Associati )の名で登録されているが、当時の写真やフィルムを見れば、このSLがもっぱら最も重要な女優であり、最も美しい女性に使われていたことが分かる。申告された価格は540万イタリアンリラ(現在の価値では8万2000ユーロに相当)。とはいえ平均月給が4万5000リラだった当時のイタリアでは年収10年分に当たる。これはローマの中心部に大きなアパートメントを買えるぐらいの大金だった。

ソフィア・ローレンと彼女の300SLの有名なシーンは、メルセデス・ベンツ自身のPR部門が積極的に公開した。中でも「ラリー・デル・シネマ」に出場した際の姿は人々の記憶に残っている。このイベントは3日間で1000kmを走るレギュラリティラリーで、ドライバーは全員映画やテレビで活躍する有名人。1956年4月13日にローマをスタートしてシエナ、モンテカティーニ・テルメ、ヴァレーゼを経てサンレモにゴール。その後有名なカジノのウィンターガーデンで豪華なガラ・ディナーというものだった。

総合優勝はアルファ・ロメオ・ジュリエッタに乗るイタリア人俳優のアルベルト・ソルディで、ミズ・ローレンの成績は振るわなかったが、表彰式での笑顔を見る限り、まったく気にしてはいないようだった。

ソフィア・ローレンとSLの生活はその年の末に終わりを告げる。1956年12月10日にローマのチボリのトロッタ・ロランドという実業家に300万リラで売却されたのだ。彼はその車を 1958年9月にローマの会社に150万リラで譲渡。その後4番目のオーナーとなるミラノのピコ・ジュゼッペ・マリアが1961年12月に70万リラで購入、その際に新しいナンバープレート“Mi612971”が発行されている。

さらに1962年4月にはニューヨーク生まれでミラノ在住のコラディーニ・ヴィヴィアーニ・アーサーに40万リラで売却した。コラディーニは有名な高級車ディーラーで、ヨーロッパで買った車を米国に輸出する仕事をしていた。その後SLは何人かの米国人オーナーの手を経たが、皆この車のヒストリーを知ることなく、2000年代はじめにヨーロッパに戻ったという。最初はスウェーデンのコレクターが所有し、その後2019年にスイスのメルセデス・コレクターであるダニエル・イゼッリの手に渡った。彼はそのSLのヒストリーを熟知しており、ガルウィングのスペシャリストである HK エンジニアリングに新しく手に入れた宝物の面倒を見てくれるよう依頼したのである。







「当初はごく控えめな作業に留めるつもりだった」と語るのはハンス・クライス、HK エンジニアリングの" HK "である。

「私たちはいつもレストアというよりも、維持保存することを優先させる。最初にざっとチェックしたところでは、まずまずのコンディションに見えたのだが、作業を始めてみると、ボディの数カ所が十分な配慮なく修理されていることが判明した。さらに少なくとも3回はアクシデントに遭っていることが分かった。そのうちリア部分のダメージが最も酷かったが、それを正しく修復するためにはシャシーからボディを取り外さなければならなかった。インテリアもオリジナルではなく、1980年代に張り直されていた。加えてエンジンをはじめドライブトレーンもオーバーホールする必要があった。そこでオーナーと話し合って完全なレストアをおこなうことを決めたんだ」





HKのチームにとっての大きな問題はタイミングだった。次の2月にはサンモリッツでのアイスイベントに参加する予定だったからだが、その時点では4カ月しか残されていなかった。

すべてがこの有名なガルウィングと最初のオーナーとの再会という一大事に向けて準備されていたが、その後に世界を襲ったコロナウィルスのせいで、60年あまり後の再会は実現しなかった。大きく開いた300SLのガルウィングドアは、ソフィア・ローレンの眉毛と似ているという"伝説"もいまだ確かめられないままである。


編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA
Words:Massimo Delbò Photography:courtesy of HK Engineering

編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA

RECOMMENDEDおすすめの記事