かつてのオーナーは元FIA会長|あるロータス・エリートの思い出【前編】

Dean Smith

このロータス・エリートを新車で購入したのは、かつてのFIA会長、故マックス・モズレーだ。6年前に果たした最初の愛車との再会には、ささやかながら『Octane』も貢献していた



我々『Octane』はキューピッドの役目を果たした。ここに取り上げたロータス・エリートと、その初代オーナーで、2021年5月23日に癌で死去したマックス・モズレーとの再会に、小さいながらも不可欠な役割を果たしたのである。

マックス・モズレーといえば、弁護士として働く傍らレースに出場し、仲間とレーシングカーコンストラクターのマーチ・エンジニアリングを興すと、F1マシンの製作も手掛けた。その後にF1の専門家となって、FOCA代表、そしてFIA会長にまで上りつめ、長年にわたって重責を務めた人物である。安全性向上の先駆者だった点も忘れてはならない。

ロータス・エリートとの出会い


マンチェスターで見習い法廷弁護士をしていた21歳のモズレーは、初の総GFRP製モノコック構造というエンジニアリングと、そのルックスに魅せられ、1961年に"最先端の夢の車"として、ロータス・タイプ14、エリートを購入した。

生前最後のインタビューとなった『Octane』の取材で、モズレーはこう語っている。

「最先端のモノコック構造と、非常に進歩的なコヴェントリー・クライマックス・エンジンの組み合わせは、私の目にとても魅力的に映った。金額的には、まったく分不相応だったけれどね。私がそれまでに所有した車といえばカニ目のスプライトだけだったのだから、たいへんな進歩だよ」

レーシングドライバーを目指していた若きモズレーは、多くの助言と手助けを、ロータスのドライバーでもあったロドニー・ブロアから得ていた(訳註:ブロアは1950~60年代にロータスで国内レースにプライベート参加。Sports Motorsというロータスのディーラー兼チームを経営していた。モズレーは、そこでエリートを購入したと自伝に記している)。エリートの完成車価格は1951ポンドだったが、組立てキットの場合には税金がかからないため1299ポンドで販売されていた。当然のことながらモズレーはキットで購入した。

「ロドニーにはあれこれと世話になり、レースにかける私の長期的な夢についても、よい助言をもらった。エリートをキットから組み立てることも、ロドニーのレースメカニックの助けがなければ無理だっただろう。私もその場にいたけれど、たいして役に立った記憶はないね。たしか2日で完成した」

モズレーはエリートを3年間所有し、ヨーロッパ中を巡った。目的地は1964年のモナコGPなど、F1レースも多かった。1962年7月のランスGPでは、ホテル代を払う余裕がなく、妻のジーンとエリートの中で夜を明かした。モズレーは『Octane』のインタビューで、トラブルは「多かったが、ほとんどは小さなもの」で、壊れやすいというエリートの評判は「いかに斬新だったかを考えれば、妥当ではない」と話している。

結局、エリートは600ポンドで手放さなければならなかった。クラブマンレーサーのマロックU2を載せたトレーラーを牽引できる、普通の車が必要になったからだ。しかし、その後もエリートのことは常に高く評価し、大切な1台として心に残った。やがて自身のキャリアが、ロータスの天才、コーリン・チャプマンのキャリアと交錯したからでもある。モズレーはロータスのボスについてこう回想した。

「彼は、モータースポーツ関連の複数の分野でユニークな才能を発揮した。一緒にすごすと最高だった。たとえば、私たちはF1仲間と一緒に毎年、キッツビュールのスキー大会を見にいき、ついでにスキーを楽しんだ。本当に愉快な人物で、腕が足りない分を情熱でカバーしていたよ。FOCAのミーティングに顔を出すようになると、大きな変化を起こした。レベルを引き上げてくれて、ずいぶん助けられたものだ」



進歩的すぎたエリート


チャプマンとロータスにとってすら、エリートは革命的なモデルだった。あまりに進みすぎていたため、続くモデルは技術的に後退してバックボーンシャシーに戻ったほどだ。タイプ14のエリートは、ロータスにとって最初の本格的なロードカーだった。先達のエンツォ・フェラーリがそうだったように、チャプマンがロードカーに進出した当初の理由も、レース活動の資金を得るためだった。ロータスの歴史に詳しい人は、本来はタイプ13だったエリートを、モータースポーツ界の迷信からタイプ14としたことをご存知だろう。対照的に、新車のエンジニアリングは不遜なまでに大胆不敵だった。もちろん、グラスファイバーの可能性を信じたエンジニアはチャプマンだけではなく、自動車業界の中でも小規模なスペシャリスト集団はこぞって刺激を受けていた。しかし、これでフルモノコックを造るところまで信頼した者はほとんどいなかった。想像してみてほしい。自分の車のデフが、1950年代のプラスチックのフロアに直接取り付けられていたらどう思うか。エンジンは、GFRPにボルト付けされた三角形のケージの中に搭載されるのだ。

エリートはクラウチエンド(ロータスファンには、ホーンジーとして親しまれている)で設計されたが、製造は新しいチェスハントのファクトリーでおこなわれた。実はロータスはその間に、イギリスのプラスチック競争で先を越されていた。1956年に登場したバークリーのSA322スポーツだ(ブリティッシュ・アンザーニ製2ストロークエンジンを搭載した300kgに満たない超小型車で、ロウリー・ボンドの設計)。 エリートは、その翌年の1957年に発表された。GFRP製モノコックボディは3分割成形で、これを8個のボックスセクションで補強し、それが取り付けポイントやハードウェアのハウジングにもなっていた。ロータスは構造部から100%スチールを排除したわけではなかったが、実に美しい姿にまとめ上げた。ボディの製造は当初はボート会社のマキシマーが、その後はブリストルが担った。官能的なラインをデザインしたのは、経理担当でもあったピーター・カーワン-テイラーだが、コーリン・チャプマンと空力エキスパートのフランク・コスティンも幅広く関与したことが知られている。コスティンの助力で、空気抵抗はCd値0.29に抑えられ、鰻のように滑らかに空気をすり抜けた。"ミスター・ローラT70"として知られるジョン・フレイリングのほか、イアン・ジョーンズ、ピーター・ケンブリッジ、ロン・ヒックマンも、それぞれに貢献した。



車重わずか673kgのエリートに巨大なエンジンは不要だった。ベースはコヴェントリー・クライマックスの消防ポンプ用エンジンで、これを拡大し、FWAとFWBの2基の要素を組み合わせて、1216ccで出力75bhpを発生した。この総アルミニウム製OHC のFWE エンジンは、BMC 製MGA用ギアボックスと組み合わされた(98ポンドのオプションでZF製もあった)。サスペンションは、フロントがダブルウィッシュボーン、リアがチャプマン・ストラットとトレーリングアーム。ブレーキは4輪ともディスクで、リアはインボード式だ。

ロードカーとして誕生したものの、軽量なエリートがサーキットの主役となるまでに時間はかからなかった。特に好成績を残したのが、当時まだレースに出走していたチャプマン自身と、のちにロータスのドライバーとなるジム・クラークだ。エリートは1959年のル・マンでクラス優勝と総合8位を成し遂げ、その後もクラス3連覇を果たし、名声を高めていった。サスペンションに手を加えたS2と、クロスレシオにチューンアップしたSE("スペシャル・イクイプメント")バージョンも登場。エリートは1959~63年に1000台余が販売された。

後編に続く。


編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.)
原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:James Elliott Photography:Dean Smith

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵

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