紛うことなき天才、エットーレ・ブガッティの偉業

BUGATTI

最先端のハイパースポーツカー、世界で最も成功したレーシングカーを生み出してきたブガッティ。約1000件に及ぶ特許を持つ創始者のエットーレ・ブガッティは、あらゆる場面で常識を覆し、革新によって完璧さを追求するブガッティ・ブランドを確立した。その精神は今日に至るまで受け継がれている。

エットーレ・ブガッティが天性のエンジニアであり、正式に勉強をしていなくても複雑な設計をマスターできるほどの才能を持っていたことは、幼少期から明らかだった。父のカルロ・ブガッティは、モーター付きの三輪車を修理する彼の才能を認め、16歳のときにプリネッティ&ストゥッキの工場で見習いをするよう勧めた。

エットーレの革新への飽くなき意欲と、パワーとスピードへの情熱は、すぐに明らかになった。見習いを始めて1年後、彼は自分でモーター付きの三輪車を設計し、パリ-ボルドー間のレースに自ら出場した。翌年には、グリネリ伯爵の資金援助を受けて、プリネッティ&ストゥッキのもとを離れ、自作の自動車を製作した。

デッサンをするエットーレ

この自作の自動車は、エンジンからボディまで細部にわたってエットーレが描き、監修し、自らの手で組み立てていった。既成概念にとらわれない画期的なデザインは、数々の賞を受賞し、デ・ディートリッヒ社の目に留まり、自動車の設計・製造を任されることになった。まだ若かったエットーレは、契約書に父親のサインが必要だった。

先見性のあるアイデア


エットーレの自動車に対する信念と情熱は並外れたものであった。20世紀初頭、自動車は大衆的な交通手段として定着しているとは言い難い状況だった。多くの人にとって、自動車はヨーロッパ、特にフランスのブルジョワたちがレースという当時の独占的な活動を楽しむための、高価な嗜好品と考えられていた。

デ・ディートリッヒ社で働いていた頃、エットーレのアイデアが時代を先取りしていることは、目に見えて明らかだった。1903年、彼はパリ〜マドリード間のレース用に、重心と空力を考慮してシャシーの低い位置にドライバーを配置したマシンを製作した。この画期的なアイデアはあまりにも先駆的であり、高い位置に座ることこそ自動車の正しいデザインであると主催者が考えていたため、レースに出ることさえ許されなかった。

20歳当時のエットーレ

1907年、エットーレはエンジンメーカーであるドイツ社の生産責任者として働きながら、独自のアイデアを展開していった。雇い主のために大容量のエンジンを搭載した、より大型で重量のある車を作る一方で、彼は当時のトレンドに真っ向から反する、小型で軽量な車を作っていたのである。

1909年に完成したのが「タイプ10」、通称「ピュール・サン」(サラブレッド)。1.2リッターの4気筒エンジンは10PSを発揮し、わずか365kgの2シーターでありながら、最高速度は80km/hに達した。鋳鉄製のブロックに格納された1気筒あたり2つのバルブを作動させるオーバーヘッド・カムシャフトは、エットーレ自身が考案したものである。カムシャフトはバーティカルベベルシャフトを介してクランクシャフトに接続され、エンジンからの動力は多板クラッチとドライブシャフトを介して後輪に伝達される。これは、自動車のほとんどがチェーンドライブを装備していた当時としては、極めて異例のことだった。

エットーレは、自分の作った車を大勢の観客の前で披露し、その素晴らしさをアピールする場として、レースを活用することにいち早く取り組んだ。そして、彼の技術力とスピードとパワーへの情熱は、多くの人が信じていた勝利の方程式を覆した。歴史を振り返ると、この永続的な哲学はブガッティのライバルたちにも模倣され、彼らもまたエットーレを見習ってレースをアピールの舞台にしようとした。

1911年のフランスGPでは、タイプ10を改造したタイプ13をアーネスト・フリードリッヒがハンドルを握って出場し、重量が約2倍、エンジンが約3倍の車と対決した。圧倒的不利に思われるスペックの差だったが、この戦いではエットーレのビジョンと決断力が勝り、彼の作品は2位という素晴らしい成績を収めた。

オクタン日本版編集部

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