20世紀最後の“やりすぎた”ワンオフカー|ランボルギーニ プレグンタ・スピードスター【前編】

Photography:Max Serra

ランボルギーニがカウンタックの後継車の開発を決めた1985年に、プロジェクト132(後のディアブロ)がはじまった。親会社が変わった場合、プロセスが混乱してプロジェクトがキャンセルされることがあるが、プロジェクト132は奇跡的に継続された。ディアブロの生産終了までに、なんとランボルギーニ社のオーナーは3度も替わった。
 
ディアブロは1990年1月21日に発売されたが、開発中の1987年には、ミムラン兄弟からクライスラー・コーポレーションにランボルギーニ社の所有者が替わっていた。そのクライスラーも、1994年にメガ・テック社に売却し、その1年後にはV`Power社とマイコム・セドコ社に、そして最終的には1998年にアウディ社に引き継がれて、現在に至っている。
 
ランボルギーニを手中に収めたアウディは、直ちにディアブロの後継モデルの開発に着手した。その一方で、当初、マルチェロ・ガンディーニが手掛けていたスタイリングは、クライスラーのトム・ゲイルを経て、リュック・ドンケルヴォルケに任されていた。ディアブロは長寿名モデルとなって、いくつかの技術的なアップグレードと新しいインテリアを備えるなどして、ムルシエラゴが登場する2001年まで生産された。初めこそ苦戦していたランボルギーニだったが、10年以上にわたってフェラーリなどを相手に競争力を保っていた。

プレグンタ・スピードスター誕生の経緯


どのようにして、ランボルギーニはスーパーカーデザインの最先端に君臨してきたのだろうか。カロッツェリア・ベルトーネでマルチェロ・ガンディーニがミウラをデザインしたとき、彼は28歳だった。カウンタックをデザインしたときは32歳、フリーランスとしてディアブロのラインを描いたときは52歳になっていた。
 
ランボルギーニは、新しいスタイルのアイデアやソリューションを求めて、複数のスペシャリストやデザイナーにシャシーを提供。1995年、ジウジアーロが率いるイタルデザインは、ウラッコやジャルパのような小さな姉妹車として、カラを発表した。
 
ディアブロのパワートレインとランニングギアはザガートにも提供され、ザガートは1996年にラプター、1997年にカント、さらに1999年にはカントの改良版を発表した。また、ガンディーニは、1996年にコンセプトカーのアコスタを発表した。3例目として、ユーリエに提供され、同社は1998年に「プレグンタ・スピードスター」を発表した。

スタイリングモデルはユーリエ社のトリノ・スタジオで形作られる。ボディパネルが完成すると、試作作業に移る。コンセプトの初期型では、光沢のある仕上げ、透明なルーフパネル、めずらしい意匠のホイールなどが採用されていた。
 
ユーリエ社は、1920年にアドルフ・ユーリエが、フランス東部のドゥー=セーヴル県のセリゼに馬車を製造するために設立した会社である。1935年に自動車事業に参入し、その後は大手メーカーの少量生産を専門に受注していた。プジョー205ターボ16やルノー5ターボ、シトロエンの各種エステートやVISAコンバーチブル、オペル・ティグラなど、話題性のある車を生産していた。
 
1980年、アンリ・ユーリエ・グループにバスの製造を専門とする新会社が加わった。トリノには、イヴェコ社と契約した子会社があり、ベルギー人デザイナーのマルク・デシャンが経営に携わっていた。デシャンは、1979年にマルチェロ・ガンディーニの後任としてカロッツェリア・ベルトーネに入社し、スタイル部門を担当していたことから、この地域ではよく知られた存在だった。
 
彼が手がけた1972年のシトロエンGSカマルグは、1982年のBXにつながるシトロエンとのパートナーシップの扉を開いたため、ベルトーネにとって重要なプロトタイプであった。また、シトロエンXMの生産も担当した。
 
1992年にユーリエ・トリノに入社したデシャンは、すぐにオープントップ・ボディワークを採用したラフィカを発表した。1996年には、メルセデスベンツ・イントルーダーを発表した。これは、GクラスのシャシーにSLKのボディをモディファイして架装したものである。1998年には、このページで紹介するワンオフのランボルギーニ・プレグンタ・スピードスターの製作を担当した。

「アウディとランボルギーニの間で合意書が交わされたのは、1998年6月12日のことでした」と語るのは、プレグンタを現在管理しているフランス人のミシェル・レヴィだ。しかし、この車の製作は、それ以前から始まっていたようだ。

ユーリエ・トリノで撮影された、プレグンタの製作過程の初期段階を記録した写真の日付は、1998年半ばのものだ。サンタアガタでは、コクピットのデザインを含めたプレグンタのスタイリングの特許をとり、他のメーカーに一切漏れないように細心の注意が払われていた。これは、当時のランボルギーニ経営陣が「スーパーディアブロ」の可能性を秘めた、新プロジェクトを開発するための、大胆な潜入調査であった可能性を示唆している。

完成した車は、内外装ともにまったく新しいスタイルで、同社の伝統である画期的で挑発的な車だった。

「ランボルギーニは、この新しいワンオフモデルを造るためのベースとして、ディアブロ開発車を提供した。同車のシャシーナンバーはZA9DE07A0KLA12005だ。ランボルギーニの意図は明らかにされていないが、他の車と混同されないような斬新なデザインを求めていた。ランボルギーニは、この車をいつでも展示できる権利と、最終モデルを一般公開や報道機関に発表する前にランボルギーニの承認を得ることを明確に要求していた」とレヴィは説明してくれた。

エッジ、アングル、シザーズドア⋯、ランボルギーニのモチーフはすべてここにあるが、ホイリーズは独自の見解を持っていた。空気の流れを導くかのようなラインと、スイスチーズの穴を思わせるライト、そしてエアインテークに注目。

アウディ傘下でのランボルギーニ


ランボルギーニがアウディに買収されて間もなく、あらゆるプロジェクトが中止された。その決定を下したのは、フォルクスワーゲングループの取締役会長である、フェルディナンド・ピエヒである。いうまでもなく、ピエヒはフェルディナンド・ポルシェの孫で、ランボルギーニとベントレーの買収を指示し、ブガッティの復活にも資金を提供していた。
 
当時、アウディのCEOであったフランツ・ヨセフ・ペフゲンは、ベント・アクセル・シュレジンガー(VWグループのイタリア輸入代理店であるオートゲルマの会長)に、ランボルギーニへの評価についての市場調査を依頼した。
 
その結果、ランボルギーニのスタイリングは、“角ばった形状”が重要であることがわかった。ピエヒは、VWグループのデザインはすべて社内でおこなうべきだと主張していたが、プレグンタのプロジェクトを中止させることはできず、1998年9月29日にパリで開催された、第100回パリ・サロンで公開された。

【後編】に続く


編集翻訳:伊東和彦 (Mobi-curators Labo.)  原文翻訳:オクタン日本版編集部
Words:Massimo Delbò Photography:Max Serra

編集翻訳:伊東和彦 (Mobi-curators Labo.)  原文翻訳:オクタン日本版編集部

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