こんな機会はめったにない!1960年代のアストンマーティンDBを乗り比べてみた

Octane UK

1960年代のアストンマーティンと聞けば、「ステータス」や「パワー」、「ラグジュアリー」などを象徴する存在だ。だが、DB4、5、6を所有したことのある人にとっては、「扱いづらいハンドブレーキ」を備えていた時代のモデルとも呼べるだろう。


プロジェクト114とDP186


ミルブルック・プルービンググランドに設けられた丘陵コースのスタート地点に並べられた3台のアストンマーティンは、他の車にはない魅力を備えている。この3台のうち、ボディ、ホイールベース、ボンネット、ルーフラインから成る黄金比が最も美しいモデルはDB4であろう。1958年の発売当時、DB4は自動車界に大きな衝撃を与えたに違いない。ほかの2台は、典型的なグランツーリスモのデザインでまとめられているが、DB4ほどのエレガントさは感じられない。

アストンマーティンと聞けば、いつの時代でもDB4、5、6が思い浮かぶだろう。特にDB5は、ボンドカーとして注目されることが多い。実際、ボンドが最初に乗ったアストンマーティンは、フレミングの小説に登場するモデルはDB Mk.III なのだが、映画化されたときに使われたことで、DB5の方が遥かに有名になった。

DB4からは、それまでの初期のDBモデルで用いられたシャシーが変わり、ウィリー・ワトソン/W.O.ベントレー開発の“LB6エンジン”の搭載位置が改められた。

1948年に、アストンマーティンとラゴンダの両社を総額7万5000ポンドあまりで買収したデイビッド・ブラウンは、自身の名を冠した工業グループの社主であり、自らもアストンマーティンを愛用するエンスージャストであった。買収から7年後、ブラウンは設計部門の一室で、フランク・フィーリーの影響を受けたペリメーターフレーム・シャシーを備えた、開発プロジェクト114の計画が進んでいた。これが後のDB4となる。

その後、エンジン設計室に行くと、ブラウンが採用したばかりのポーランド人の優秀なエンジニア、ダレック・マレックが、プロジェクト114(DB4)に搭載予定の新しい6気筒エンジン、DP186の開発に励んでいるのが見えた。この年は、アストンマーティンのレース部門にとって素晴らしい年だった。モンテカルロ・ラリーではDB2/4がクラス1位、3位、4位を獲得し、サーキットではピーター・コリンズとポール・フレールのDB3Sがル・マン24時間レースで2位、レジ・パーネルとデニス・プアがグッドウッド9時間レースで優勝するなど、国際的レースでなんと7つもの勝利を収めた。デイビッド・ブラウン自身にとってもよい年であり、秘書のマージョリー・ディーンズとの2度目の結婚をしている。

スーパーレッジェーラ構造の採用


しかし、アストンマーティンには逆風も吹いていた。デイビッド・ブラウンは、ニューポート・パグネルにあるティックフォード・コーチワークスに対して買収交渉中で、成功した暁にはアストンマーティンをその地に移転させるつもりだった。また、DB4には新しい構造技術、スーパーレッジェーラを採用する予定だった。これは、イタリア・ミラノのツーリング社が航空ボディの構造として開発したもので、特許を取得してあった。細いスチールチューブの骨組みに、アルミニウム製のボディ外皮を被せるという構造であった。アストンマーティンからジョン・ワイアーがミラノに派遣され、フィーリーが手掛けてレースで成功した、DB3Sのノーズのデザインを取り入れた新しいボディの詳細を詰めていった。だが、ツーリング側はDP114で採用されたペリメーターフレームではなく、プラットフォーム・シャシーであることを強く要求した。

そのため、DB4のプロトタイプは再構築が必要となり、ハロルド・ビーチはスチール製のプラットフォーム・シャシーの設計に着手した。このときに開発されたシャシーレイアウトは、2000年まで連綿とアストンマーティンに採用されることとなった。

フロントのウィッシュボーン式サスペンションとデイビッド・ブラウン製のラック&ピニオン・ステアリングはDP114から流用されたが、予定されていたド・ディオン式リア・サスペンションは、コイルで吊ったリジッドアクスルとレバーアーム・ダンパーというシンプルな方式に置き換えられていた。

マレックの考えでは、エンジンはアルミニウム製ではなく、鋳鉄製とする予定であったが、工場が鋳鉄では対応できなかったことから、アルミニウム製とすることが決まり、ロールス・ロイス社が第二次大戦前に航空機エンジンのために開発した高強度軽合金、“ヒドミニウム(Hiduminium)”をシリンダーブロックとヘッドに使用した。これにより軽量になったものの、アルミニウムは膨張率が高いため、ツインキャブの3.7リッター・エンジンはオーバーヒートに対して非常に弱く、エンジンがベアリングジャーナル部分を中心に膨張し、油圧が著しく低下してしまう問題が発生することになった。

DB4は、1958年のアールズコート・モーターショーで発表された。DB4シリーズ1は、4000ポンドと高価な車だった(イングランド銀行のインフレ率で換算すると現在の価値で8万4297ポンド)。しかし、当時のアストンマーティン社の財務は、常に厳しい状況にあり、その価格設定は妥当とは言えないものだった。1933年から47年までMDを務め、デイビッド・ブラウンにアストンマーティンを売却したゴードン・サザーランドは、かつて「アストンマーティンは、多くの顧客に好まれる車を提供していた一方、車から利益を出すことは得意ではなかった」と語っている。





デイビッド・ブラウンも同様の問題を抱えており、アストンマーティンはデイビッド・ブラウン・グループ全体の看板商品であったが、収益を上げたことはなかったであろう。実際、1960年代にハリウッド俳優のクラーク・ゲーブルがデイビッド・ブラウンの工場を見学した際の逸話が残っている。彼はアストンマーティンの購入を考えたのだが、自分が所有していることの宣伝効果を理由に、車を原価で買いたいと言った。すると、デイビッド・ブラウンに、「ああ、ありがとうございます、ゲーブルさん。うちのお客さんのほとんどは、原価より2000ポンドも安い値段で買われていますよ」とあっさり承諾され、上機嫌だったという。

文:Andrew English 編集翻訳:オクタン日本版編集部

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