数あるフェラーリの中でも特に羨望の的|250GT SWBの物語【前編】

courtesy of Daniel Siebenmann

ゴードン・マーレーは、1995年のル・マン24時間レースでマクラーレンF1 GTRが優勝したとき、そのマシンを運転して帰国しなかったことへの後悔を口にしている。ロードカーとして設計したF1をレーシングカーにコンバートすることに、当初、マーレーは難色を示したが、マクラーレンはデビュー戦で見事に勝利をつかみ、残る3台のGTRも3位、4位、5位でフィニッシュした。ここからGTレースは新たな激戦の時代に突入し、やがてポルシェとメルセデス・ベンツも戦いに加わった。

たしかに1995年にル・マン優勝車両でイギリスまで凱旋すれば、最高の宣伝になっただろう。しかし、それが1960年代初頭なら、たいして驚くには当たらなかった。当時はイベントへの行き帰りに競技車両を使うことがめずらしくなかったからだ。たとえばエキュリ・フランコルシャンは、1963年のル・マンからの帰途、深夜にパリに到着すると、激闘で汚れた250GTOを駐めて、歓楽街のピガール地区で夜を明かしたという。まさにGTレースの黄金時代だった。公道で当たり前に使える車が、トップクラスのレースで堂々と渡り合えたのだ。その時代に群を抜くオールラウンダーだったのがフェラーリ250 GTである。





ベルリネッタ

レースを席巻したマラネロ生まれのコンペティション・ベルリネッタは、今では数あるフェラーリの中でも特に羨望の的となっている。1956~59年にスカリエッティが製造した250 GTは、ホイールベース2600mmのタイプ508シャシーに、ジョアッキーノ・コロンボ設計の“ショートブロック”V12エンジンを搭載し、ツール・ド・フランスで大成功を収めたため、非公式ながらそのイベント名で呼ばれるようになった。

次に大きく進化したのが1960年の250 GTだ。わずかに改良されたピニン・ファリーナのボディワークは、1959年の"インテリム(中間)"モデルで初めて使われたが、これと組み合わせるシャシーがコンパクトなタイプ539に変わった。ホイールベースが2400mmに短縮されたことから、ショートホイールベース(SWB)の名で知られている。SWBには2バージョンが用意された。スチール製ボディのルッソと、内装をはぎ取ったアルミニウム製ボディのコンペティツィオーネだ。1960年から1961年にかけて改良が進み、その究極形は、タイプ539/61コンペティツィオーネ・シャシーの特殊な進化版に、より薄いボディワークとパワーアップしたエンジンを組み合わせ、"SEFACホットロッド"と呼ばれている。この2シーズンにSWBはツール・ド・フランスとツーリスト・トロフィーを連覇。さらに1961年には、ル・マン、セブリング、ニュルブルクリンクでGTクラスを制したほか、パリ1000kmではペドロとリカルドのロドリゲス兄弟が総合優勝を成し遂げた。



公道からサーキットまで

ファクトリーの支援を受ける代理店チームで名高いスタードライバーがステアリングを握っただけでなく、SWBはジェントルマンドライバーにとっても完璧な武器となった。そうしたドライバーのひとりがスイスのエンスージアスト、ダニエル・ジーベンマンである。まだ20代半ばだった1962年に、シャシーナンバー2563GTを手に入れた。ジーベンマンはヨーロッパのグランプリを取材する記者兼カメラマンで、以前にレースで使ったアルファロメオ・スプリント・ザガートの登録ナンバーBE74827をSWBに付け替えた。ジーベンマンのSWBは、1961年5月15日にA.デメトリアディというイタリア人に販売されたもので、スチール製ボディのルッソ仕様だったが、コンペティツィオーネの標準装備であるウェバー製DCL6キャブレター3基を備えていた。ジーベンマンはこれを日常の足として使ったほか、バカンスには南仏ジュアン・レ・パンへ、冬はタイヤを履き替えてアルプス山麓のグシュタードへと出掛けた。

ジーベンマンはSWBでレースにも出走した。その多くがエキュリ・ビエノワーズからの参戦だ。ビール湖畔の町ビエンヌからその名を取ったこのチームは、スイスのレーサーの集まりで、使用するモデルこそさまざまだったが、エントリーを手配し、資金を出し合うために結成された。2563GTがレースナンバーを付けずにモンツァを走る姿を捕らえた当時の写真が残っているが、これは正式なレースではなく、エキュリ・ビエノワーズのテストデイだった。



ジーベンマンは1963年にSWBで大きなイベントに3回出走している。そのうち2回は国際GTマニュファクチャラーズ選手権(世界スポーツカー選手権の当時の名称)に数えられた。この年、選手権は前年の全15戦から全22戦に拡大された。サーキットでのレースが増えただけでなく、ヒルクライムやラリーも加えて、シーズンを通してGTカーの能力を幅広く試そうという意図だった。

ジーベンマンと2563GTの初戦は、7月7日のトロフィー・ドーヴェルニュだ。チャレンジングなシャレード・サーキットを舞台とする3時間のレースで、多くのエントリーが集まった。フェラーリのワークスドライバーであるロレンツォ・バンディーニは、スクーデリアSSSレプブリカ・ディ・ヴェネツィアから250 TRI/61で参戦。カルロ・マリア・アバーテとデビッド・パイパーが250 GTOで、ルシアン・ビアンキがマセラティ・ティーポ151で出走したほか、エドガー・バルトとヘルベルト・リンゲのワークスポルシェや、トニー・ヘグボーンとマイク・ベックウィズのロータス23の姿もあった。

レースはル・マン式スタートで小さな混乱が生じた。バンディーニとアバーテが接触しそうになって急停止し、その周りに後続車両があふれたのだ。ジーベンマンは、ジャン・ケルゲンのアストンマーティンDB4 GTザガートをバンディーニが抜く際にコース外に押し出されたものの、あとはトラブルなしで切り抜け、3000ccGTクラスの3位でフィニッシュした。エキュリ・ビエノワーズから出走した他の3台もすべて完走。シドニー・シャルピヨズとヨルグ・ヴィスブロートはエルバでクラス2位と3位、ヘルマン・ミュラーはポルシェで総合4位と大健闘した。



翌月、ジーベンマンはオロン・ヴィラール・ヒルクライムに出走する。これも国際GTマニュファクチャラーズ選手権の1戦で、名高いヨーロッパ・マウンテン選手権のスイス戦でもあった。4.97マイルの山道で2回のタイム計測を行い、その合計で結果が決まる。シングルシーターの出走もあり、四輪駆動のファーガソンP99でジョー・ボニエが最速タイムをたたき出した。1500ccクラスの2位は若きジョー・シフェール、クラス優勝は当時2度のF1チャンピオンだったジャック・ブラバムだ。3000ccGTクラスでは、シャレードでドライブしたのと同じGTOで出走したアバーテが優勝。ジーベンマンは同クラス7位、合計タイムは11分0.2秒だった。これはGTOでクラス5位だったアルマンド・ボラーと10秒ほどの差だから、立派なタイムといえる。

ジーベンマンと2563GTの最後の出走は、10月6日、インスブルックでのプライス・フォン・チロルだった。舞台は、シャレードともオロン・ヴィラールともまったく異質の全長2.8kmの飛行場である。それでもエキュリ・ビエノワーズは1600cc以上のGTクラスで健闘した。ジーベンマンに加えて、シャルピヨズがジャガーEタイプで出走し、ライトウエイトEタイプを駆るペーター・ネカーに全力で追いすがった。ネカーが先頭でチェッカーフラッグを受け、2位はGTOの"ジュリオ・パヴェーシ"(俳優のギュンター・フィリップのレース名)、シャルピヨズとジーベンマンはクラス5位と6位だった。ジーベンマンは1964年8月30日にもSWBでシエール-モンタナ-クラン・ヒルクライムに出走したという見方もあるが、その頃には後継の250GTルッソで出走していたことが写真から分かっている。

売却にあたって魅力を高めようと、ジーベンマンはSWBを赤に塗り直した。ファクトリーの記録によれば、オリジナルはグリジオ・コンキリア(淡いグレー)でインテリアはペッレ(ダークレッド)だったが、ジーベンマンの息子であるダニエルJr.は、ボディは白でインテリアは黒だったと話している。SWBを売却したジーベンマンは、汽車でモデナへ出向き、ファクトリーで直接ルッソを受け取った。この車で何度かヒルクライムに出走したのち、レースをやめる決意をする。結婚して子どもも生まれたからだ。



【後編】に続く。

編集翻訳:伊東和彦 (Mobi-curators Labo.)  原文翻訳:木下 恵
Words: James Page Photography: Stephan Bauer for Auxietre & chmidt, Archive photographs courtesy of Daniel Siebenmann

編集翻訳:伊東和彦 (Mobi-curators Labo.)  原文翻訳:木下 恵

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