M.M.M. ミニ・ミニ・モールトン PART.1|サー・アレック・イシゴニス

Jack YAMAGUCHI


 
イギリスで教育を受けたアレックの父コンスタンティンは、家業を継ぐためにスミルナに戻り、ヴュルテンベルク公国(現ドイツ、バーデン・ヴュルテンベルク州)出身のフルダ・クロコップと結婚した。アレック・イシゴニスは、ベルント・ピッシェツリーダー元BMW会長、元フォルクスワーゲン会長と母系姻戚の従兄弟であった。BMWは、ピッシェツリーダー期に英ローバー・グループを買収、その後の業績悪化で分割売却したが、Miniブランドのみは保持した。現在のMINIに至るR50計画を承認したのは、ピッシェツリーダー博士であった。

1922年9月、ギリシャ・トルコ戦争中のスミルナ大炎上の直前、英海軍は同市在住イギリス人を軍艦で近隣の英領諸島に緊急避難させた。マルタ島のテント生活を余儀なくされたフルダ夫人は、1923年、アレックの将来を憂い、敢えて病床にあった夫コンスタンティンを残してイギリスに渡る決意をする。非常に意志の強い女性で、生涯アレックの庇護者であり、彼の性格に大きな影響を与えたという。
 
戦争で財産のほとんどを失ったフルダは、すでに入学許可を得ていた名門プライヴェート校、オウンドル・スクールを断念し、アレックをバターシー工芸専門学校に入学させた。ロンドン南西部バターシーに所在した同校は、『ロンドンの非・富裕層に高等教育を与える』ために、1891年創立された学校であった。以後、大学認可を受け、現在のサレー州サレー大学に至る。
 
アレック・イシゴニスは、スミルナ時期には、学校教育を受けず、同地の富裕イギリス人在留子女の通例である家庭教師に学んだ。バターシー校で数学試験に3度失敗したとは、多くのイシゴニス伝記に記されているが、知能、才能ではなく、むしろ学校式勉学の知識不足ゆえであった。イシゴニス自身、すっかり数学嫌いになったらしく、「純粋の数学なるものは、すべての創造的天才の敵」とまでいった。バターシー卒業後、イシゴニスはロンドン大学校外課程を終了し、大学卒の資格を得た。
 
1928年、イシゴニスは、ロンドンの設計事務所に設計兼製図エンジニアとして入社した。ここでの仕事を通し、大手メーカー、ルーツ・グループ上級車ハンバーのチーフエンジニアが彼の才能に着眼し、スカウトした。ハンバーは、当時、前輪独立サスペンション開発中で、彼もそのメンバーに加わった。

文・写真:山口京一 Words and Images: Jack YAMAGUCHI

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