「安価で元気のあるGT」喜劇俳優が愛した素晴らしいアストンマーティン

Photography: Alex Tapley

この記事は『【知られざる物語】 ピーター・セラーズと彼が愛したアストンマーティンDB4 GT』の続きです。

最初に立ち寄るのは、DB4が飛び越えた橋のすぐそばにある、おとり作戦の現場である。角の店はまだそこにあり、幸いにも道路のレイアウトは変わっていない。 あれから55年以上経った今の交通量は昔よりはるかに多いが、長い信号待ちがむしろ我々に休息を与えてくれている。アストンをじっくり見るために、他のドライバーたちが減速するというのと同様だ。


映画の中で、DB4が再び走り出すシーンに映る2つ目の橋は、昔とまったく変わらないパブの前にある。パブのオーナーは映画について事細かく知っており、まさにあの時の車が戻ってきたのを見てとても喜んでいるようだった。我々は車でここを何往復かしたが、その間かなりの群衆が車をひと目見ようと集まってきた。

デンハム飛行場への道も昔とほぼ同じで、建物のいくつかは変わっていたが、飛行場は見慣れたあの外観である。昔と同じ“〇〇倶楽部”感をいまでも持っている。ここでも、DB4 GTの映画での評判によって、飛行場のスタッフが職場復帰をしたがるようだ。



このあたりで、DB4 GTとは何か、また通常のDB4とどのように違うか、もう一度考えてみよう。

1958年当時、DB4はおそらく世界で最も先進的なGTカーであった。パリでの発売時に、地元の代理店業者は、アストンマーティンのテクニカルディレクターで、レーシングチームのオーナーであったジョン・ワイヤーに、レーシングバージョンを製作するよう説得した。ハロルド・ビーチとテッド・カッティング、そしてワイヤーはレーシングバージョンを製作するプロジェクトにすでに6カ月間かかっていたので、喜んで要望に答えることにした。

ワイヤーはテッドに「DB4から5インチ切り取って、安価で元気のあるGTを造ろう」と話した。テッド・カッティングはル・マンで優勝したDBR1を設計した人物で、DB4 GTをDB2のコンセプトである「長距離運転、超高速、2人乗りツーリングカー」への回帰と見なした。

ドアは軽量アルミニウムで、トランク内はスペアタイヤが上に置かれた30ガロンの燃料タンクで占められていた。エンジンはツインプラグヘッドとウェバー製のトリプルセット45 DCOE キャブレターを内蔵する。フロントのオイルクーラースクープが追加され、ボラーニ製のワイヤーが軽合金ホイールに取り付けられている。また、ガーリング製のディスクブレーキが搭載された。ツーリング仕様のDB4のデザイン面での変更は、ニューポート・パグネルで製造されたヘッドライトとは別に、ティックフォードのデザイナーによってフェルサムで行われた。

より高い圧縮比(9:1)、より大きなバルブ、および強化されたカムシャフトは、6000回転で発揮される302馬力の到達に一役買った。DB4 GTの0-100km/h加速は6秒強、時速60マイル(時速約96キロ)、0-400mレースを14秒で走り抜け、時速150マイル強(時速約240キロ)のスピードを出すことができる。 

プロトタイプのDP199/1は、1959年3月にファーストランを迎えた。公でのデビューは5月のシルバーストンであった。スターリング・モスはポールポジションを獲得し、レースで勝利を収め、ラップレコードを記録。レースに参加するためには、ジョン・ワイヤーがプロトタイプを生産ラインに入れる契約にサインをしなければならなかった。 1959年のル・マンに参加したDP199は、同レースに出場した唯一のDB4 GTであった。 1960年に、レグ・パーネルはMIRA Ltd.のトラックでテストを行った。彼は、停止状態から時速100マイル(時速160キロ)まで一気に加速し、20秒で静止状態に戻したことでよく知られている人物である。

Words:Stephen Archer   訳:オクタン編集部   Photography: Alex Tapley

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