様々なドラマがあった!アストンマーティンのレーシング・ヒストリー

Aston martin



ホールフォールは、このレースからわずか4週間後、英国のシルバーストンで開催された1949年 BRDCトロフィーでレーシング・アクシデントに見舞われ、この世を去った。アストンマーティン・オーナーやエンスージアストの中でも群を抜く彼の偉業を記念して、アストン・マーティン・オーナーズ・クラブは、彼の記憶を後世へと残すため、セントジョン・ホースフォール・メモリアル・トロフィーを毎年開催している。

1950年代は、アストンマーティンにとってエキサイティングな時期となった。1947年にアストンマーティンを買収し、同年にラゴンダ・ブランドを追加したデイヴィッド・ブラウン卿が、英国流スポーツカーを着実に開発、その魅力を大いにアピールすることに成功した。

デイヴィッド卿は、アストンマーティンの商業的な成功にはモータースポーツが重要であると認識し、1955年に、世界スポーツカー選手権だけでなく、当時はまだ新しいカテゴリーだったF1世界選手権でも優勝することができるマシンを作るという野心的な計画を立てた。

アストンマーティンの歴史を振り返ると、ル・マンを制したDBR1やその後継マシンであるDBR3S に注目が集まるが、初期のシングルシーターであるDP155 によるプログラムは、アストンマーティンにとって貴重な学習の場となり、50年代後半のGP マシン開発に繋がっている。このプログラムと並行して、デイビッド卿は、新しいエンジンや新しいロードカー開発にも着手し、DB4 が誕生した。



その後、レーシングカー アストンマーティンDBR4が開発される。このマシンは、1957年にテストが開始され、デビュー戦の1959年 BRDC インターナショナル・トロフィーとなった。同イベントは、F1レギュレーションに則って、同年5月のシルバーストーンで開催された。

このレースには、2台のアストンマーティンが参戦し、ロイ・サルバトーリがル・マン 24時間レースでドライブしたカーナンバー1が、ジャック・ブラバムのクーパー・クライマックス T51に次ぐ2位でチェッカーを受けている。2493cc、6気筒、ドライサンプRB 250 エンジン、DBR1スポーツカー・エンジンと同一の基本デザインを採用していた。このパワーユニットを搭載するDBR4/250は、スペースフレーム・シャシーのシングルシーターで、最高出力は256bhp、車両重量は575kgだった。



サルヴァドーリやキャロル・シェルビーなど、スタードライバーがステアリングを握ったフロントエンジンのDBR4は、最新ミッドシップのライバルマシンの後塵を拝するしかなく、DBR1がスポーツカー・シーンで見せたような成功をF1で再現することはできなかった。後継マシンであるDBR5もデビュー戦で成果を収めることができず、アストンマーティンは、1960年にシングルシーター最高峰クラスから撤退した。

オクタン編集部

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