様々なドラマがあった!アストンマーティンのレーシング・ヒストリー

Aston martin

1946年ベルギー・スポーツカーGPは、最高峰クラスのレースではなかったものの、アストンマーティンのレーシング・ヒストリーを語る上で欠かせない戦いとなった。

戦後間もない時期はモータースポーツで、今日における絶え間ないテクノロジー開発競争と比べると、比較的穏やかな時代だった。特に、第二次世界大戦終了直後のレーシングマシンは、当然のことながら、その多くのマシンが完全な新設計ではなかったのである。戦前に製作されたアストンマーティン“スピード・モデル”も十分に現役として通用したため、1936年型アストンマーティン 2.0 リッター・スポーツカーが、ブリュッセル近郊のボワ・ドゥ・ラ・カンブルのロードコースで1946年6月16日に開催されたベルギー・スポーツカーGPに参戦したことも驚くに値しない。

そのうち1台には、アストンマーティン・モータースポーツ史の中でも異彩を放つドライバー、セントジョン・ラトクリフ・スチュワート・ホースフォール(通称'ジョック'ホースフォール)がステアリングを握っていた。裕福な家庭の6人兄弟はひとりとして生を受けたジョックは、幼いころから自動車に興味を示し、1934年に、24歳で自身初のアストンマーティンを購入した。株式ブローカーとしても成功していた彼は、すぐにアストンマーティン“ファミリー”の一員となり、開発やテストを通じてブランドを支援した。



彼は、戦時中のMI5で働き、MI5職員やエージェント、ダブルエージェント、あるいは囚われの身となった敵のスパイを乗せて、MI5を公用車を運転したこともある異色の経歴の持ち主だ。彼は極度の近視であるうえに乱視も抱えていたにもかかわらず、視力を矯正するために眼鏡をかけることを嫌っていたそうだ。

ジョックは、海軍および空軍施設のセキュリティ・テストにも関わっており、機密情報にも精通していた。彼にとってもっとも“シークレットな”活動は、オペレーション・ミンスミート(1943年、枢軸国を欺いて、連合国軍がシチリアに侵入した軍事作戦)において、ドライバーを務めたことだった。興味深いことに、この極秘任務は、1939年に海軍諜報部門責任者を務めたジョン・ゴッドフレイ少将と彼の個人秘書であったイアン・フレミング少佐が詳細にわたってメモに記した、敵軍欺瞞戦略を基にしたといわれている。

戦後に開催されたベルギー・スポーツカーGPでは、このレースに参戦したフレイザー・ナッシュ、BMW、アルヴィスといったライバルメーカーを抑えて、ジョックが真っ先にチェッカーを受けた。これは、アストンマーティンのヴィンテージマシンが記録した、注目すべき勝利となった。

ジョックのマシンには、1950cc 4気筒OHCエンジンが搭載されていた。最高出力は約125bhp、マシンの重量は約800kg。アルスター・スタイルのオープンボディ、2シーター、セパレート・ウィングを備えたこのマシンは、120mph(約186km/h)を誇った。

しかし、ベルギーでの勝利は、ホールフォールにとって最高の栄誉ではなかった。それから3年後、彼は1949年 スパ 24時間レースにプライベート参戦し、アストンマーティン・スピード・モデルでクラス 2位、総合4位に輝いている。この業績を際立たせているのは、控えドライバーのポール・フレールがいたにもかかわらず、ホールフォールがひとりで24時間を走り切ったことである。

オクタン編集部

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