「狂騒の20年代」アストンマーティンの栄光ヒストリーを振り返る

Aston martin




アストンマーティンは、TT1、TT2と呼ばれるレーシングマシンを開発して、1922年6月22日のマン島TTに参戦する予定だったが、準備が間に合わなかった。そこで、日程を変更して、7月15日にストラスブールで開催される2.0リッター・フランスGPに照準を合わせ直した。そして、このイベントが、アストンマーティンにとってグランプリレースへのデビュー戦となった。



TT1のステアリングはズボロウスキーが握り、その隣にはレン・マーティン(ライオネルとの血縁はない)がメカニックとして乗り込んだ。TT2のクルーは、ドライバーにギャロップ、メカニックにH.J. ベントレー(自動車メーカーのベントレーとは無関係)という布陣であった。

しかし、彼らが開発したエンジンは排気量が小さく、ライバルと比較してパワー不足は否めなかった。さらに、早急な開発作業に加え、バラストの搭載が義務づけられたために、2台ともエンジントラブルでリタイアを喫している。しかし、このレースでのリタイアは、まだ船出したばかりのチームにとって、非常に良い経験となった。ケンジントンのアビンドンロードに本拠を構えるチームは、このようにしてグランプリ・アドベンチャーの第一歩を踏み出した。

TTは、当初こそ開発不足を露呈したものの、その後に熟成され、ヴィラフランカ・サーキットで開催された1922年のペーニャ・ラインGPで2位に入るなど、複数のレースで表彰台を獲得している。チームは、その翌年に開催されたペーニャ・ラインGPでも2位でフィニッシュし、同年のブローニュGPでは3位でチェッカーを受けている。



1924年、ズボロウスキーがレース中のアクシデントにより命を落とす。彼の早すぎる死により、エースドライバーを失ったアストンマーティンの第1期レースプログラムが終焉を迎えることになった。アストンマーティンのレーシングマシンを使用したプライベートチームは、数多くの成功をめていましたが、アストンマーティンが本格的にグランプリシーンに復帰するまでには、20年の歳月が流れることになる。

オクタン編集部

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