「狂騒の20年代」アストンマーティンの栄光ヒストリーを振り返る

Aston martin



その後、ライオネル・マーティン率いるチームとズボロウスキーは、1922年のマン島TT(ツーリスト・トロフィー)に参戦すべく、新たに2台のマシンを製作する計画を立てた。ズボロウスキーは、このプロジェクトに約10,000ポンド(当時の"ひと財産")を投入して、マシンだけでなく、完全に新しい16バルブDOHC 4気筒レーシングエンジンの開発も行った。

アストンマーティンの初代グランプリカーには、このようにして開発された1486ccユニットが搭載された。エンジンの最高出力は約55bhp/4200rpmだった。車両重量は750kg、最高速度は85mph(約136km/h)を誇った。2座のシートが装着されていたのは、当時のレギュレーションに従って、ライディングメカニックを乗せるためであった。ライディングメカニックは、メカニックとしての仕事だけでなく、ハンドポンプを使用して燃料タンクに圧力をかける役割も果たしていた。

信じられないことに、当時のレーシングチームは、レースが開催される会場まで、マシンを自走させていた。

アストンマーティンと同様に、エンジン自体にも注目に値するストーリーがある。アストンマーティンは、1922年まで複数年にわたってこのエンジンを製作し、大きな成功を手にした。するとライバル勢(プジョー、ブガッティ、A.L.F.A.など)は、レースおよびスピードレコード用に大排気量の16バルブ・パワーユニットを新開発し、英国ブランドに対抗しようとした。アストンマーティン・パワープラント創世記には、さまざまな逸話が散りばめられている。

ズボロウスキー伯爵には、クライブ・ギャロップという良き友人であり、ライバルがいた。ギャロップは、プジョーのエンジニアであるマルセル・グレミヨンの知り合いでもあった。この才能溢れるフランス人エンジニアは、その当時、フランスの自動車メーカー、バロットで仕事をしていた偉大なエンジンデザイナー、アーネスト・ヘンリーの弟子である。

グレミヨンは、ヘンリーに3.0リッター・バロット・エンジンの詳細を教えくれるように頼んだ。ヘンリーは、ただ図面をふたつに引き裂いただけであったが、グレミヨンはこの図面にバンフォード&マーティンのシングルカム、16バルブエンジンの下半分を繋ぎ合わせた。これが大きな宝をもたらすことになる。

引き裂かれた図面を基にヘンリーが開発した3.0リッター・ユニットは、バンフォード&マーティン1.5リッター SOHC 16バルブエンジンへとその姿を変えた。

オクタン編集部

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