驚きのヒストリーが秘められていた「残骸」のようなアルファロメオ6C 1750SS

Photography:Ashley Border



アルファの出自を証明する決め手となったのがリブレットだ。そこには、1750スーペルスポルトのシリーズ3で、シャシーナンバーが"6C0312898"であること、1929年11月25日に完成し、1930年1月13日にベニート・ムッソリーニに納車されたことが記されていた。金額は6万リラとある。ムッソリーニが自腹を切ったのかどうかは知る由もない。その数年前には、イタリアの首相から独裁者へと事実上の移行を果たしている。

車両登録証には、ムッソリーニのアルファが" Roma 22215"で登録されたと記されている。このナンバーは、ルーチェ・アーカイブの写真のほか、ウェブサイトで視聴できる映像にもはっきり映っている。1931年4月末におこなわれたラディオ・アウト・ラドゥーノというラリーで撮影されたもので、ローマから海辺の町オスティアまでのステージで、ムッソリーニが車列を率いる姿を捉えている。



このラリーは競技というよりパレードに近かった。その目的は無線通信の利用促進で、いかにもムッソリーニの好きそうなことだ。参加者はおびただしい数に上り、全員が無線受信機でルートの指示を受けなければならなかった。イタリアのアマチュア無線愛好家の新聞『L’Antenna』は、このラリーを大々的に取り上げた。ラリーのフルレポートを掲載した1931年5月15日付けの全紙面が、なんとPDF形式でインターネット上に存在する。地味なビュイック・サルーンで同行した記者は、無線で次のように伝えている。「ローマと海を結ぶ見事な高速道路…、1000台に迫る車が列をなす壮大な光景が広がる。その先頭は高速マシンに乗ったイル・ドゥーチェだ…」オーバーテイクを狙う者などいなかったことは想像に難くない。

そうした写真の高解像度版をつぶさに調べるうちに、サイモン・ソーンリーは興味深い発見をした。運転席側のドアの後ろに付いた小さなコーチビルダーのバッジから、このスーペルスポルトのボディを製造したのが、1750のカロッツェリアとして最もよく知られるザガートではなく、あまり一般的ではないスタビリメンティ・ファリーナだったのだ。とはいえ、1750SSのボディを手掛けたコーチビルダーは、ほかにもカスターニャやトゥーリングなど複数あった。



反対に、謎が深まる発見もあった。ルーチェ・アーカイブには、ムッソリーニが同一と見られる車で、ワイン用ブドウの収穫のため、カルペナにある一族の屋敷を訪ねたときの写真も数枚ある。ところが不思議なことに、ナンバープレートの数字が異なるのだ。しかも、これらの写真は1929年7月10日のもので、シャシーナンバー6C0312898のリブレットに記された製造日の5カ月近くも前なのである。



どちらの写真も同一の1750SS?第二弾へ続く

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.)  Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Mark Dixon 

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