イタリアの美の遺伝子 フェラーリ・ローマの「新たな甘い生活」

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古代ローマ・ルネサンス・50年代後半〜60年代と、時を超えて世界を魅了してきたイタリアの優美なライフスタイル。「ラ・ヌォーヴァ・ドルチェ・ヴィータ(新たな甘い生活)」をコンセプトに登場したフェラーリ・ローマには、その美の遺伝子はどのように受け継がれているのだろうか?

誰もいない夜のローマに浮かぶ男女の影が2つ。スーツに身を包んだハンサムなイタリア男。そしてハリウッドからやってきた金髪のグラマー女優。夫婦や恋人という形にはまらない佇まいが想像力を掻き立てる。背後に、壮麗なバロック様式の彫刻がライトに浮かび上がる。噴水に入り無邪気に水と戯れる男女2人は、さながらローマ神話の神々か古代ローマ帝国の市民のよう。エレガントで自らの情熱に忠実だ。
 
フェデリコ・フェリーニ監督の傑作映画『甘い生活』(1960)のメインビジュアルにもなっている最も有名なシーン。観光名所"トレヴィの泉"で戯れるマルチェロ・マストロヤンニとアニタ・エグバーグだ。一級の美術品のような嬋媛な映像に、ローマに行ったことがなくとも世界中の人々が「やはり、"永遠の都ローマ"は世界一エレガントだ!」と酔いしれた。50年代後半〜60年代のイタリアは、前の大戦で敗戦したものの文化においては追随を許さないことを見せつけたのだ。

Reporters Associati & Archivi/Getty Images

 
映画『甘い生活』には、イタリアの美の遺伝子が凝縮している。様々な見解はあると思うが、筆者なりにそれを紐解いて行きたい。それによりフェラーリ・ローマの時を超えた魅力がより深く味わえるかもしれない。では『甘い生活』の時代にタイムスリップしていこう。
 
イタリア繁栄の時代

50年代後半~60年代は、戦後イタリアが経済・文化ともに息を吹き返し好景気に湧いた時代だ。当時を象徴するキーワードは、"チネチッタ"、"ヴェネト通り"、"パパラッチ"。"チネチッタ"(イタリア語で「映画都市」)は、ローマ郊外にあるヨーロッパでも有数の映画撮影所である。戦後になってイタリア映画の金字塔と言われるフェリーニやヴィスコンティの作品からハリウッドの大作まで撮影されるようになった。 

経済復興とエンターテイメントの興盛と共に上流階級や映画人のセレブリティが集うようになったエリアが、『甘い生活』のメイン舞台となる"ヴェネト通り"だ。ラグジュアリーホテルにオープンカフェが立ち並ぶ通りは、道も広々と街路樹が生い茂り、ローマにおいても特別な華やかさを誇っていた。
 
光の影には闇もある。ここに2シーターのオープンカーで乗り付けるセレブリティの私生活を暴こうと追いかけるのが、ゴシップ記者である主役のマルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)なのだ。そして、その相棒のカメラマンの名前は"パパラッツォ"。これが"パパラッチ"の語源となったこの時代のローマの活況は、第二次世界の敗戦で荒廃したイタリアの歴史抜きには理解できない。


 
イタリアは、ムッソリーニ率いるファシズム政権の支配下、ドイツ・日本と組んで連合軍と戦った。日本と異なるのは、国家をわかつ酷い内戦に至ったことだ。イタリア王国の降伏後、イタリアを占領したドイツ軍と親ドイツ派のイタリア軍は、連合軍およびイタリア王国軍と交戦を始めた。
 
そこにドイツの傀儡政権と化したファシストのムッソリーニ、反ファシズムで国土解放を目指すレジスタンスなど、同じイタリア人同士にも敵味方が入り乱れ、最終的にはレジスタンスによって国土が解放されてイタリア共和国が生まれた。
 
国土を跨っての対戦はイタリアに大きな傷を残したが、それが復興への力にもなった。戦後、アメリカの復興援助であるマーシャルプランを受けたイタリアは"奇跡の復活" を遂げる。その盛り上がりが50年代後半~60年代だった。2700年前からの栄枯盛衰を経て"永遠の都市ローマ"は再び輝きを取り戻したのだ。
 

文:梅澤さやか(ムーサの芸術研究会 https://moikalab.com/、MOIKA GALLERY  https://moikagallery.com/、KAFUN株式会社  https://kafun.jp/)

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