徹底的に一台の車を愛し、使い倒した一人のジェントルマンレーサー

Photography:Thomas Macabelli



次にはシルバーストンでのクラブレースにエントリーしたが、ブレーキの問題が解決しておらず、スタートは断念した。その後、フラミニアは蒸気船クリストフォロ・コロンボ号でアメリカに帰国した。「私は乗船させるため車を転回しているときに、コンクリートの柱にシルをぶつけてしまった」とアルトゥノフは振り返る。フラミニアが再びヨーロッパに渡ったのは2000年のことだ。このときはクイーン・エリザベス2号で運ばれ、イタリア(タルガフローリオを祝ってシチリア巡りもした)、スイス、オーストリアでクラシックラリーに参加した。

1963年に話を戻そう。フラミニア・ザガートはアメリカへの凱旋記念とばかりに、さっそくアラバマ州コートランドでSCCAのレースに出走した。12月には、バハマのナッソー・スピードウィークに参戦。すっかり使い込まれたフラミニアは、1964年2月にもデイトナ2000kmに出走したが、いくつものトラブルに見舞われてリタイアに終わった。「直後にエンジンがブローしたので、ナッシュビルのランチアディーラーでリビルドした」とアルトゥノフは話す。



1965年と66年にもセブリング12時間にエントリーしたものの、計画どおりには運ばなかった。「1965年は、コ・ドライバーがディストリビューターを取り外してタイミング調整をしたけれど、何時間やってもうまくいかない。それでスタートできなかったが、これが幸いだった。帰宅途中に車軸が折れたのさ。翌年は、トレーラーに積み込む最中に、2800rpm辺りでエンジンがノッキングするのが聞こえた。

そこで私は、最高2700rpmを守ってナッシュビルからロサンゼルスまでの1900マイルを走り、2.5リッターのランチアエンジンを購入した。トリプルキャブ仕様ではない。ヘッドガスケット抜けを起こしたやつで、フラミニアにV8を換装した男から買い取った。そしてまた運転して帰ってきた」



「そのすぐあとに、私はオリジナルのエンジンをブローさせてピストンをダメにしてしまい、フラミニアは何年もガレージに駐車したままになった。しかし、優秀なメカニックで友人のテックス・アーノルドが、私の持っていた2基を使って、1基のエンジンをついに完成させた。いくつかのパーツは買い足したけれどね」

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo. ) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.)  原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA  Words:Massimo Delbò THANKS TO Edoardo Bonanomi of Automobile Tricolore

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