たった19歳でレーシング・フェラーリを購入したジム・ホールから受け継ぐ0510M

Photography:Ingo Schmoldt

この記事は『骨折したままレースに挑んだ ?! │キャロル・シェルビーと一台のフェラーリ』の続きです。

この年の10月、ギバーソンはジム・ホールと兄のディックに750モンツァを売却する。彼らはダラスのキャロル・シェルビー・スポーツカーを財政的に支援していたことから、ペブルビーチで開かれた1956年のデルモンテ・トロフィーに出場する際には、自然とシェルビーがドライバーに選ばれることになった。ここでシェルビーは優勝。0510Mは同じレースで2連勝を遂げたのである。 

 
レース後、トレーラーにフェラーリを積み込んでダラスを目指していたシェルビーは、途中、カンサス州のダッヂ市で開催されたSCCAレースに立ち寄り、この週2度目の栄冠を勝ち取る。ダラスに辿り着くにはまだ2000マイル(約3200km)ほどの道のりが残っていたが、モンツァはシェルビーという歴史的名ドライバーの手により移動を続けた。もっとも、これは価値ある"旅"だったといえる。
 
たった19歳にして0510Mを購入したジム・ホールも、当時、この車をドライブしていた。「最初に乗ったとき、ひどく驚かされたことをいまも覚えています」とホール。「とにかくトルクが豊かで、素早くシフトする必要がありました。しかも走りは最高。ブレーキはドラムだったのに、文句のつけようがありませんでした。信じられないくらい素晴らしいレーシングカーだと思ったものです」


 
ジム・ホールは、モータースポーツ界で著名な数多くの人物とこれまで活動をともにしてきた。ディック・トラウトマンとトム・バーンズが生み出したオリジナル・シャパラルで2レースを戦った後、その名の使用権を譲り受けたホールは、ハップ・シャープとともに新たなレーシングカーの開発に取り組む。彼らはレーシングカーにウィングを採り入れたパイオニアであり、可変空力デバイス、グランドエフェクト、セミオートマティック・ギアボックスなどをレーシングカーに用いた最初のエンジニアだった。シャパラルが1960年代に生み出したレーシングカーは、Can-Amやそのほかの耐久レースで何度となく栄冠を勝ち取り、観客を熱狂させたものである。
 
フェラーリ・モンツァが登場したのは、そうしたことが起きるよりも以前のことだった。アメリカ南西部のローカルレースでいくつかの勝利を挙げたホールは、続いてシェルビーとともに1957年のセブリング12時間への出場を計画する。ただし、そのためにはFIAが新たに導入した付則C 項に基づく大規模な改修を実施しなければならない。そこでこの作業を実施するため、0510Mをマラネロに送り返すことを決める。

編集翻訳:大谷達也 Transcreation:Tatsuya OTANI Words and Photography:Ingo Schmoldt

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