骨折したままレースに挑んだ ?! │キャロル・シェルビーと一台のフェラーリ

Photography:Ingo Schmoldt



シャシーナンバー0510M が次に挑んだレースはカリフォルニア州のペブルビーチだった。車をトレーラーに載せたヒルは南カリフォルニアに暮らす友人のボブ・ソレルを訪ね、セブリングで12 時間にわたって砂を浴びたボディを手早く再塗装してもらった。ソレルとヒルはペブルビーチに車を持ち込むと、そこでマシンを降ろし、ウェット・コンディションのなか開催されたデルモンテ・トロフィーで優勝する。

今日、750モンツァに施されている白とブルーのカラーに2Dのカーナンバーが添えられたカラーリングは、このときのものである。“新大陸”にやってきて2ヵ月。アメリカをぐるっと1周するのに匹敵する5600 マイル(約9000km)以上の距離をふたりのドライバーの手で旅してきたフェラーリは、これで早くも2勝を挙げた(うち1勝は幻と終わったが⋯)のである。



もっとも、この年の"旅"がこれで幕を閉じたわけではなかった。ペブルビーチでのレースが終わると、ギバーソンはヒルとリッチー・ギンサーに対し、モンツァでヨーロッパの夏のレースシーズンを戦ってくるように指示したのである。彼らと0510Mを載せたフレデリック・ライクス号はニューオリンズを出港。ジェノヴァで船を降りると、列車に積み込まれてフェラーリ本社のあるモデナに運び込まれた。ここでリフレッシュ作業を受けるためだ。

これが終わるとヒルとギンサーはアウトドローモ・ディ・モデナでシェイクダウンをおこなったが、彼らは不幸な運命に翻弄されてしまう。1955年6月にル・マンで起きた死亡事故のため、ヨーロッパではこの夏予定されていた主要なレースがすべて中止に追い込まれたのだ。このためモンツァはダラスに送り返されることが決まる。


ジム・ホールが所有?・・・次回へ続く

編集翻訳:大谷達也 Transcreation:Tatsuya OTANI Words and Photography:Ingo Schmoldt

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