車と共に駆け抜ける。そんな生き方の手本 松田芳穂

Photography: Ryota SATO



その後、レースには懲りていたが、車から心が離れたわけではなかった。度々、車を探すために渡米していた70年代のある日、走る情熱を根底から目覚めさせるきっかけとなることが起きる。それがメルセデス・ベンツ 300SLとアストンマーティンDB2/4の購入である。実際に走らせてみると、それまでの車では得られなかった興奮を覚え、楽しくて仕方がなかったという。それからというもの、今までとは異なる大きな視点で幅広く自動車の収集を続け、1980年には「軽井沢古典車館」を創設した。


 
そして、ポルシェ550スパイダーを手に入れたことをきっかけに、ポルシェへの情熱が覚醒する。ポルシェとひとことで言っても、松田氏が手にした車両には普通のポルシェは一台もなく、今日の日本では滅多に見ることができないものばかりだ。では、そのラインナップとはどのようなものであろうか。ポルシェのモンスターマシンと呼ばれ、1970年 ル・マン24時間で優勝を獲得した917Kから、906 、910 、935 、RS61に至るまで(これらはほんの一部)モータースポーツの歴史においてなくてはならないマシンの数々を所有していた。

これらは今となっては、本国のポルシェミュージアムが厳重に管理しているものばかりだ。特にデザインを気に入った917Kは、3年という時間を掛けて交渉を続け、やっとの思いで手に入れた。なぜ、ここまでレーシングカーにこだわり集めていたのかといえば、その答えはただ一つ。松田氏はハイスピードのハイパフォーマンスカーにこそ情熱を感じているのだ。日常使いに930ターボなども所有し、その乗りやすさ、速さを気に入り長きに渡り乗っていたという。それからというもの、乗り継いだポルシェだけでも25台を超える。


 
ポルシェをきっかけに収集することに傾倒し、アメリカで訪問した数々のミュージアムの影響も受け、箱根のボーリング場跡地に「ポルシェ博物館」を1981年に創設した。入場料は一律1000円。都心から近い立地もあってのことか、軽井沢の博物館よりも人気を集めたという。世界標準から見ても驚くべきレベルのコレクションであったであろうが、当時の日本においては特に、とてつもない存在感であったに違いない。ミュージアムに展示しているとはいえ、松田氏が車を集めていたそもそもの目的は"走らせる"ためである。ミュージアムから頻繁に車を連れ出して、箱根の山道でドライブを楽しんでいた。1983年にはポルシェA.G.の協力も得て、ポルシェ・パレードを開催し、日本にポルシェ文化を根付かせることに成功した。人々を魅了してやまないポルシェだけのパレードを開催しようという松田氏の想いを後押ししたものは、名誉や損益への欲求ではもちろんなく、「ポルシェを愛する人たちで集まってみたい」というポルシェへの純粋な愛であった。
 
翌年、1984年には「フェラーリ・デイズ・イン・ジャパン」、1990年には「フェラーリ・ブランチ」を初開催する。オーナー同士で声を掛け合い、自ら招待状を送り参加者を集めた。これらのイベント開催も、ミュージアム設立同様に当時の車好きには大きな激震となった。今でこそ都内でフェラーリを見かけることはめずらしくなくなったが、当時は真っ赤なフェラーリが放つオーラは凄まじいものであった。松田氏の発案によるイベントでは、そんな眩しいフェラーリが一堂に集まり芝生の上を真っ赤に染めるのだ(もちろん、ボディカラーは赤だけではない)。松田氏は日本にはこうしたイベントを開催できる場所がないと考え、自ら御殿場にヴィンテージカーガーデンを創ることになった。そこは箱根らしい起伏と芝の緑豊かなガーデンで、クラシックカーのメッカとして多くのイベントが開催され現在に至っている。

オクタン日本版編集部

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