「マクラーレンを生き、マクラーレンを呼吸していた」タイラー・アレキサンダーという人物

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「1963年にマクラーレンを創設したブルース・マクラーレンと並んで、タイラー・アレキサンダーは私たちの会社を支えた初代の柱でした。彼はブルースとともに、マクラーレンの草創期から懸命な尽力を続けてくれました。チームの評判を築いていく上で、ブルースもこれ以上に頼りがいのある双肩は得られなかったことでしょう」とマクラーレンの現総帥ロン・デニスは、タイラー・アレキサンダーに言葉を送る。

「タイラーの巧みながらも実践的な専門知識や、エネルギーにあふれた前向きな姿勢は、ドライで皮肉の効いたユーモア・センスともあいまって、素晴らしい成功を収め、広く人望を集めました。Can-Amやインディ500で勝利を収めるクルーをまとめながら、またチームのファクトリーでマシン組立てを監督し、F1で世界一流のドライバーたちやエンジニアたちと活動していても、そのスタンスは一貫していました」

「率直に言えば、タイラーはマクラーレンを生き、マクラーレンを呼吸していたのです。2008年にはすべてのグランプリに参加し、さらに世界選手権でチームとルイス・ハミルトンの成功を固める大任を果たし、引退しましたが、その後も私たちに愛される貴重な同僚でいてくれました。彼は定期的にファクトリーに顔を出しては、新旧の仲間たちとの交流を続けていたのです。心から頼ることのできる友情とは、正にタイラーの行いを言うのでしょう。決して人の期待を裏切らない人物でした」

「実際、昔かたぎな逸材の中でもタイラーはひときわ優秀でした。強く、控えめで、思慮深いのです。彼は国際モータースポーツの歴史に忘れがたい評判と遺産を残しました」
 
米国マサチューセッツ州で生まれたタイラーは、友人のテディ・メイヤーと組んでモーターレーシングの世界に足を踏み入れた。当時、テディは弟ティミーのレース・キャリアを世話していた。タイラーとテディのコンビは、間もなくピーター・レブソンやロジャー・ペンスキーらとも知り合い、ヨーロッパに渡る。ここでタイラーはニュージーランド人のブルース・マクラーレンに出会い、1964年タスマン・シリーズにおけるティミーの事故死を経て、ブルースに誘われ彼の右腕となった。
 
タイラーが果たした役割には、定義も職域区分もなかった。メカニックたちを指揮し、スペアパーツを作り、宿泊先を手配し、どたん場で購入した航空券の代金を支払い、増え続ける友人や同僚のリストから"好意をかき集めた"。世界中でマクラーレンのレーシングカーを押し引きしつつ、いったんトラックに出れば、マクラーレンのピットレーンが、どのチームよりも優れた設計かつ組立になっているように手配した。
 
1970年にブルース・マクラーレンがマシン・テストで死去した後もマクラーレンに残り、それまでどおり役割を果たし続けたが、1983年にはインディカーを走らせるべくテディ・メイヤー再び合流し、この過程で、若き日のエイドリアン・ニューウェイを発掘している。1985年にはカール・ハースが率いるベアトリス・ローラのチームに参加し、その後、再度インディカーに戻ってニューマン・ハース・レーシングでマリオ・アンドレッティを走らせた。
 
1989年にロン・デニスの勧めでマクラーレンに復帰したタイラーは、技術担当として世界中で活躍した。レースが開催される週末には、ピットガレージでノートパソコンの背後にいるタイラーがよく見かけられたが、ほぼ常に彼はカメラを手にしていた。
 
この時、タイラーが撮影したオフショット写真は、著書『マクラーレンから見たモータースポーツ』や、昨年デービッド・ブル出版より刊行された著書『A Life and Times with McLaren 』に収められている。2008年にマクラーレンを引退した。

オクタン日本版編集部

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