幹部全員を解雇した・・・1961年にエンツォ・フェラーリが取った行動の理由とは?

Ferrari

1961年、エンツォ・フェラーリは会社の幹部全員を解雇した。その理由は何だったのだろうか。

1961年のフェラーリは最高の職場であったであろう。実績ある幹部が取り仕切り、レースでも輝かしい成功が続いていた。その年は、フィル・ヒルがF1タイトルを獲得し、250テスタロッサとディーノ246 SPで世界スポーツカー選手権を5戦4勝で制したのだ。8人の幹部は、いずれも勤続年数が長く、若くて優秀だった。それにもかかわらず、10月24日火曜日、週1回の定例会議を普段通りに終えた直後に、エンツォ・フェラーリは突然8人全員を解雇したのである。
 
全員が重要な部署の責任者だった。開発エンジニアチーフのジョット・ビッザリーニ、チーフデザイナーのカルロ・キティ、経営管理責任者のエルマーノ・デラ・カーザ、鋳造所責任者のファウスト・ガラッソ、営業部長のジローラモ・ガルディーニ、購買部長のフェデリコ・ジベルティ、人事部長のエンツォ・セルミ、そしてレースチーム代表のロモロ・タヴォーニである。

「すべて私たちの責任だ。史上最大の失敗だった」と、マラネロ近郊のカジナルボ村にある自宅で私に話してくれた。タヴォーニは1950年1月16 日にフェラーリにやってきた。勤めていた銀行からの"ローン"という形で、数ヵ月だけ出向する予定だったが、結局そのまま残り、チーム代表にまで上りつめた。
 
タヴォーニは当時の様子をこう語った。「幹部全員が、エンツォ・フェラーリの妻、ラウラ・ガレッロ・フェラーリ夫人に何らかの不満を抱いていた。息子のディーノの死後、夫人は情緒不安定になり、たくさんのひんしゅくを買っていた。一度など、人事部長のエンツォ・セルミを、フェラーリからの金をすべて従業員に与えていないと部下の目の前で責めたてた。また、チーフデザイナーのカルロ・キティにも、彼が住んでいるアパートの家賃を払っていないと、やはり部下の前で批判した。私も個人攻撃を受けたよ。それでも全員我慢していたが、エルマーノ・デラ・カーザが彼女と口論になってひどく腹を立て、ついに弁護士に相談した」

「こうして、弁護士に手紙を書いてもらい、家族の"面倒を見る"ように幹部全員の名前でフェラーリさんに頼もうということになった。私は5日間、署名を拒んだよ。間違っていると思ったからだ。私はあの人をよく知っていた。たぶん他のメンバーよりよく知っていたはずだ。夫人の存在があの人にとって個人的な悲劇であることも分かっていた。しかし、"会社のためだ"と言われて、とうとう私も折れたんだ」



「1961年10月最後の火曜日に行われた定例会議は、普段通りの内容だった。ただ、例の手紙が開封された状態で私たちから見えるようにテーブルの上に置いてあることには全員が気づいた。その話題にはひと言も触れずに会議は終わり、部屋を出て階下へ行くと、各部署の副責任者が待っていた。彼らは全員昇進して責任者になり、その最初の仕事として、私たちにもうフェラーリの従業員ではないと告げたんだ。私物をまとめる時間もろくに与えられず、数分のうちに建物を出なければならなかった」

「私はエンツォ・フェラーリのことならすべて知っていた。1950年から56年まで助手として働いた関係で、"3つの家族"の切り盛りも手伝っていた。母親と、"公式"の家族(妻のラウラと息子のディーノ)、そして"非公式"の家族(次男のピエロとその母親リナ・ラルディ)だ。そこで私は2 分だけ面会してほしいと頼んだ。最初は断られたが、1分だけならと認められてオフィスへ行った。しかし、決断は覆らなかったよ。誰もがこれは妻を攻撃した罰だと考えた。しかし、真の過ちはあの手紙だった。エンツォ・フェラーリは私たちを作り、成功させた。そして、私たちに対しては、これ以上ないほどの完全なる忠誠を求めたんだ」

「面と向かって話をするのではなく、手紙を書く、しかも弁護士に書かせた。それが真の過ちだった。会社を任されていた私たち幹部は、完全に信用を失った。あの人の目には、私たちの行為が自分への信頼の欠如と映ったんだ」

「私たちが直談判していたら、おそらくこんな答えが返ってきただろう。『ああ、ああ、分かっているとも。だが、私は彼女と生きていかねばならないのだから、お前たちも同じようにするしかない。私たちはひとつのチームなのだから』しかし、それを理由に私たちを解雇することは絶対になかったはずだ」
 
タヴォーニは、フェラーリの歴史とイタリア自動車産業の中でも特に優れたマネージャーとして認められている。その後は、モンツァ・サーキットの責任者を30年以上にわたって務め上げた。しかし、自動車メーカーに職を得ることは何年も不可能だったという。特にアバルトはタヴォーニを雇いたがったが、それを快く思わないことをエンツォが公言していたのだ。フェラーリに戻れた幹部はひとりだけだった。デラ・カーザは、"オールドマン"との仲を取り持ってくれるようエンツォの母親に頼んだのである。
 
この「宮廷の反逆」事件からわずか2カ月後には、フェラーリは前進を始めていた。それを牽引したのは、キティに代わってテクニカルディレクターに就任した若きマウロ・フォルギエリだった。


Words: Steve Sutcliffe

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