英国初のF1チャンピオンと美しき「ヒーロー」の物語 後編 

Photography: Amy Shore

このB20は1955年1月6日に登録が完了。4月30日には英国ハンプシャー州イブスリーで開催されたクラブ・レースにも参加している。この頃には、すでにコルサ並のスペックになっていたのかもしれない。クロスリーがロード・テストを実施した際に、ホーソーンはリアアクスル・レシオを高めることを検討していたという。あるいは、その変更はレースよりも後に施されたのだろうか。

レースにはHMキッズトン少佐の名義でエントリーされているが、実際に運転したのはおそらくロニー・ホアー大佐だろう。彼はフェラーリを英国に輸入するために、後にマラネッロ・コンセッショナリーズを立ち上げた人物だ。この活動は、ホーソーンの突然の死という運命に妨げられなければ、彼も自身のために進めていた計画だったという。はたして、「JMホーソーン」号は当然のようにレースの最速ラップを記録したものの、ハンディキャップ・レースゆえに優勝はオースチンA30に譲られた。
 
現在、このアウレリアはホーソーンが所有していた時代とほぼ同じ状態に保たれている。ちょっとした錆もきれいに取り払われ、スタンダードのエグゾーストはアバルト社製のものに取り替えられた。こうして眺めてみると、少々"ポンコツ気味"な時期があったことなど嘘のようだが、これまでの歴史がかき消されてしまったというわけでもない。あれから新たな経歴が加わってもいる。ジョン・カンディは2001年にレストアを完成させてから、このランチアで西ヨーロッパ中をゆうに約6万5000kmもドライブしたという。1995年にこの車を購入した彼は、10代目のオーナーにあたる。ちなみにマイク・ロジャースは6代目のオーナーだ。

目の前にあるシートのレザーも、ステアリングホイールも、マイク・ホーソーン本人が座り、握ったそのままの現物だ。カーペットは仕方なく交換したものの、ジョンはできるかぎりオリジナルの素材をよみがえらせようと尽力した。それでも、ウエストラインから下のボディの大半は、新しいパネルへの交換を余儀なくされたという。新しいパネルは手作業で造形され、突き合わせ溶接で接合した。

これはピニン・ファリーナでの手法に共通点の多い方式だ。バルクヘッド、エンジンベイ、トランクフロア、センタートンネルだけは、基本構造をオリジナルのままに保つことができたという。ボンネットとトランクリッドは、1970 年代後半に粗雑に作られたアルミニウム製のものを取り外し、スチールで新調されている。


 
ジョンは、完ぺきに平らな側面を創り上げるピニン・ファリーナの手法に心酔しており、このレストアでもその方法の再現に努めたという。「通常はドアスキンの縁がシェルの内側に巻き込まれがちですが、そうなると凸面が生じてしまいます。ピニン・ファリーナはそうした方法は取らずに、外側の平らなスキンを内側とともにカットした上で、溶接してからつなげています。これがあの素晴らしいシャットラインを創り上げる秘訣です」と、ジョンが語る。
 
機構部分は細部まで入念にリビルドされた。事実上、ほぼすべての部分がリビルドされたといえるだろう。その中には、ツーリスト・トロフィー・ガレージが挑戦した試みの後始末も含まれていた。彼らは、全アルミニウム製のV6エンジン(バンク角90°、総排気量2451cc)から、ファクトリー出荷時の最高出力118bhpを上回る出力を引き出そうと試みていた。

シリンダーヘッドやインテークマニホールドなどのアルミニウム製部品は、研磨されすぎていたことで、加齢によって危険なレベルにまで薄くなり、さらにバルブガイドは磨耗によってゆるみ、バルブステムの支えが適切に効きにくい状態になっていたという。「とにかくひどい状態でした」とジョンが回想する。バルブヘッドに難儀を強いられたため、この部分はすぐに取り外し、リビルドしたという。「そのような事情で、ヘッドとインテークマニホールドが2個ずつ必要でしたが、どちらも容易には見つかりませんでした。例によって、ランチアの設計陣は最良の方法を知り尽くしていると実感したものです」とジョンが続ける。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo. )  Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:フルパッケージ Translation: Full Package Words: John Simister 

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