自動車デザインを変えた男 パトリック・ルケモン 前編

Archive photography: Ford, Renault, P. le Quément

パトリック・ルケモンの功績は、フォードではシエラ、ルノーではトゥインゴやセニックといったエポックメイキングカーを生み出したことだけではない。自動車デザインの重要性に着目したことこそ、彼の功績なのである。

パトリック・ルケモンがその輝かしいキャリアを築いたのは、1970年代の欧州フォードからだ。80年代に手がけたシエラ・コスワースやフィエスタMk.2、カーゴ・トラックのデザインで注目を浴びた。90年代はルノーだ。同社のデザインを劇的に変えた彼はトゥインゴ、セニック、そしてカルト・アイテムともいえるアヴァンタイムのスタイリングを担当して、自動車デザイン界のスターとなった。
 
ルケモンの最大の功績は、自動車製作プロセスのヒエラルキーのひとつだった"デザイン" をピラミッドのなかから取り出し、フォーカスしたことだろう。自動車にとって"カタチづくり" がどれほど大切であるか、それを見せたのだ。スタイリングこそ差異化における最も重要なポイントとなった、現在の状況を作り上げた立役者のひとりといえるだろう。この判断力、先見性によって彼はチーフデザイナーから副社長にまで上り詰めた。エンジニアや商品プランナーとともに取締役に名を連ねたのである。
 
ルケモンと自動車メーカーとの関わりは1966年、今はなきフランスの自動車メーカー、シムカから始まった。「私が入社した60年代半ば頃、デザインを担当する部署はスタイリング・デパートメントと呼ばれていましたが、スタッフは片手で数えられるほどでした。私が2009年にルノーを辞めたときは総勢480人。そのうちデザイナーは140人でした。この人数の違いだけでも時代の変化をわかってもらえると思いますね。まさに激動したのです」

"激動"、この言葉は彼の育ち方にも当てはまる。パトリックは1945年にマルセイユで生まれた。父親はフランス人、母親はイギリス人。13歳のとき父が亡くなった。友人のテストドライブに付き合っている最中、事故に巻き込まれ助手席で命を落としたのだ。

父の死後、ルケモンはイギリス・ケント州にある人口4万人ほどの漁業と観光の町、ラムズゲートの中学に送り込まれ、寄宿舎暮らしを余儀なくされた。英語を学んだのもこの時がはじめてだったという。見知らぬ土地で彼を支えたのは得意としたアートで、秀でた才能を携えていた。その後、バーミンガム・インスティチュート・オブ・アート・アンド・デザイン(現在はバーミンガム・シティ大学の一部となっている)に進学した。


 
工業デザインの学位を取得したルケモンに自動車メーカーへの就職を決意させたのは、かのレイモンド・ローウィとの出会いである。それは"逆説的"なものと言えるかもしれない。学業を終えて職を探していた頃、たまたま出かけたパリで、友人の主催したパーティに参加。そこでローウィと知り合った。

ローウィはペンシルベニア鉄道S1形蒸気機関車の車体、スチュードベーカー・アヴァンティのスタイリングからシェルのロゴ、ラッキーストライクのパッケージングに至るまで幅広く手がけたインダストリアル・デザイナーだ。ルケモンは"マエストロ" のもとで働くことを望んだものの、給料を聞いてあまりの安さに落胆した。「食べ物を削るか、屋根(住居)を諦めるか。食べて行くには家賃をはらえず、家賃を払えば食を犠牲にしなければならないほどの額でしたね」

 
ローウィのもとで仕事をすることを諦めたルケモンはシムカに入った。シムカが提示したサラリーは食と住の双方を保証するものだったから⋯。この日から彼は42年に亘って自動車メーカーに身を置くことになった。
 
そうはいってもシムカは彼にとってエントランスに過ぎず、在籍年数はごく短い。あの会社で何か特別なことをしたのかという問いに対して、ルケモンは「l200Sのハブキャップ」と笑い、それからこう付けた。「でも結構イケるものだった。この車は当時ベルトーネにいた若きジウジアーロが手がけた1000クーペの発展型。傑作ですよ」
 
1967年半ば、弱冠22歳で彼はジョン・ピンコとともにデザイン会社、スタイル・インターナショナルを立ち上げる。ピンコはルケモンよりずっと年配のアメリカ人で、フォードに在籍した経験豊かなデザイナーだった。シムカで働いたこともあり、同社にアメリカのデザイン・テクニックを持ち込んだ。ふたりは年齢の違いも含めて似合いのペアには見えないが、ルケモンはこの点について"パーフェクト・マッチング"と胸を張る。

「ひとりは先輩から学びたいと強く願っていた若者。もうひとりはフランス語を一言も話さないアメリカ人。これだけでも完璧なペアでしょう。どちらもいわば裏口から出るようにシムカを離れましたが、スタイル・インターナショナルを興してシムカ1000の後継車製作の契約を結んだんです。裏口ではなく正面玄関から入ったということです」
 
しかしクライスラーがシムカを買収したことで、このプロジェクトは暗礁に乗り上げる。加えて68年にパリで起きた"五月危機"による社会麻痺がふたりの会社にトドメを刺した。「進行中だった全てのプロジェクトがストップしました。会社はにっちもさっちも行かなくなってしまったんです」
 
スタイル・インターナショナルを続けることはできなかったが、わずかな期間にルケモンはピンコから多くのことを学んだ。それが彼の目をアメリカの会社へと向けさせた。

「当時はヨーロッパ・メーカーのほとんどがモデル製作に石膏を使っていました。アメリカはクレイでしたが、ヨーロッパでは入手できなかった素材です。色の混ぜ方や石膏モデルには使えないテープ・ドローイングも興味深かったですね。といってもこれはアメリカの手法に惹かれたということではありません。もっと本質的なことを学んだのです」

編集翻訳:由比夏子 Transcreation: Natsuko Yu Words: Guy Bird 

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