タイヤを10個履いたシトロエンDSムカデカーが誕生した理由とは?

Images: NIHON MICHELIN TIRE

車が走ることを支える、陰の存在こそがタイヤだ。シトロエンの柔らかな走りが生み出されたのは、ミシュランがあってこそだったといえるだろう。

奇妙に聞こえるかもしれないが、シトロエンでは「サスペンション設計担当責任者」のことを「リエゾン・オ・ソル責任者」と呼ぶ。「liaison au sol」とは直訳すれば「地面との関係」のことで、他のフランス車メーカーも用いる定型の言い方だし、シャシーと路面の間にある懸架装置を指すが、「ロードホールディング」とは異なる。操舵感とトレース性にフォーカスしたロードホールディングには、むしろ「tenue de route(テニュ・ドゥ・ルート)」と別の訳語が充てられる。タイヤからサスペンションとブレーキやステアリングまで、乗り心地をも左右する有機的な関連をフランス車が殊更重視するのは、シトロエンとミシュランの特別な関係に起因する。 

債務倒産したシトロエンを1935年にミシュランは買収したが、当時のシトロエンはルノーを凌ぐどころかフランスで5本の指に入る大企業で、債権者だったパリの銀行にとってミシュランは最大級の融資先。後の2CVに繋がる「TPV計画」が1930年代に推進される遥か以前、1922年にミシュランは「国民車に関する全国調査」を実施していたし、TPVを主導した後の社長ピエール・ブーランジェはミシュラン家の番頭的存在。

荒れた農道を走ってもカゴの中の卵が割れない足回り」という有名な2CVの要諦を彼がヒネり出したのは、まさに地方の貧しい農村にもモータリゼーションを進めてミシュランの売上を伸ばすため、要はできるだけ売れる車を作ってタイヤを数多く履かせることだった。
 
ちなみに世界初の舗装滑走路は1916年、ミシュランの本拠地クレルモン・フェランの飛行場だった。大統領と農民の車を同時に手がけた両極端ぶりとはシトロエンのことだが、第一次大戦中から航空という最先端産業でも「地面との関係」を積み上げた進歩的な親会社からすれば、次は国民車とハイドロプニューマチックは同時進行で当然の成り行きでもあった。
 
シトロエン-ミシュランの関係は、耐荷重と高速移動の究極を試す「DSミル・パット(ムカデのこと)」にも結実した。これはDSを改造した9トンもの重量をもつ10輪車を、シボレーの454ビッグブロック×2基で駆動することで最高速180㎞/hにも及ぶ長時間走行を目的とした実験車両。車体中央にトラック用タイヤが据えつけられ、クレルモン・フェラン近郊ラドゥーにあるミシュランのテストコース上で、その耐久性や摩耗を試験するために用いられた。1972年のことだが計画自体は「PLR(ポワ・ルール・ラピッド、高速トラックのこと)」と呼ばれ、何やら戦前のTPVのような3文字略称を想起させる。
 
シトロエンひいてはフランス車独特の、タイヤのたわみをもサスペンションの一部として採り込んだような柔らかな乗り味を決定づけた要因は、その背後にある古くて新しい「地面との関係」を思い出してみて欲しい。

文:南陽一浩 写真:日本ミシュランタイヤ Words: Kazuhiro NANYO 

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