苦難の連続を歩んできたスクーデリア・フェラーリの歴史

octane UK

スクーデリア・フェラーリはF1で最も長い歴史と輝かしい成績を誇る。だが、その道のりは苦難の連続だった。

エンツォ・フェラーリが1929~38年にアルファロメオの元で成し遂げたことは、モータースポーツの歴史に残る快挙だ。しかしそれだけに、将来の方向性を巡るアルファ上層部との対立も激しいものとなった。ついに社長のウーゴ・ゴッバートとその庇護を受けるスペイン人エンジニア、ヴィフレド・リカルトにレース活動を取り上げられたときは、さぞ腹に据えかねたことだろう。
 
エンツォはこのときの無念を忘れなかった。競技に参加しないと約束した4年が過ぎ、工作機械の製造に明け暮れた戦争も終わると、さっそく自身の名を冠した最初のレーシングカー、フェラーリ125を造り上げる。初レースはトリノのヴァレンティーノ公園で開催された1948年のイタリアGPで、レイモン・ソメールがドライブした。しかし、戦闘力を見せ始めたのはF1世界選手権が始まった1950年のことだ(前年の1949年にはル・マンで初優勝を遂げている)。フェラーリは大胆にも4.5 リッターの自然吸気V12 エンジンの開発を進めた。対してアルファロメオは、スーパーチャージャー搭載の1.5リッター直列8気筒エンジンで1950年シーズンを席巻。しかし、翌1951年のシルバーストンで、ついにホセ・フロイラン・ゴンザレスがフェラーリに初優勝をもたらし、アルファの時代の終焉を告げた。
 
エンツォは、アルファを倒したことを内心では喜んでいたものの、表向きには「私は母親を殺してしまった!」と言った。この年、アルファロメオはフアン・マニュエル・ファンジオに初タイトルをもたらしたが、これを限りにF1から撤退する。実力の差があまりに広がってしまったため、1952年と1953年はF1 にF2の規格が適用され、2.0リッターエンジンとなった。結局はそれもフェラーリの有利に働き、ライバルの力不足もあって、アルベルト・アスカリが連戦連勝で2連覇を成し遂げた。
 
エンツォの有名なモットーに「分裂させて支配せよ」がある。自分の寵愛を得ようとチームのドライバーが競い合うのをよしとした。それが悲劇の引き金となったのが1958年シーズンだ。1950年代後半は、フェラーリにとって暗い時代だった。1956年にはエンツォの息子ディーノが筋ジストロフィーで死去し、その年フェラーリでチャンピオンとなったファンジオは、仇敵のマセラティに鞍替えした。翌年そのシートをつかんだのが"放蕩息子"のマイク・ホーソーンだ。

1958年、ホーソーンは同じイギリス人のチームメート、ピーター・コリンズと親しくなった。二人の厚い友情は『モ・ナミ・メイト』という本になっているほどだ。だが、それがもうひとりのチームメート、ルイジ・ムッソの気持ちを逆なでしていたとムッソの婚約者フィアマ・ブレスキは証言している。実力で二人に及ばなかったムッソは、ギャンブルで借金を抱えていたこともあり、賞金の大きなフランスGPで無理をしすぎて事故死してしまう。このレースで優勝したのはホーソーンだった。さらに、2レース後にはイギリスGPウィナーのコリンズが死亡する。苛酷なニュルブルクリンクで開催されたドイツGPで、ホーソーンと共にトニー・ブルックスのヴァンウォールを追走していた際の事故だった。
 
めったに感情を口にしないエンツォだったが、ブレスキや、コリンズの妻ルイーズには、心のこもった哀悼の言葉を贈った。ドライバーズタイトルはホーソーンのものとなったが、この年から設けられたコンストラクターズ選手権はライバルのヴァンウォールに奪われた。実はドライバーズタイトルも、ヴァンウォールのスターリング・モスが獲得してもおかしくなかったのである。だが、ポルトガルGPでホーソーンが失格になりかけた際に、モスがそれを擁護して裁定が覆ったことで、惜しくも逃したのだった。

Words: Massimo Delbò

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