コーチビルダーの伝統が息づく地│アストンマーティンのニューポートパグネル工場

Photography:AML / Various With thanks to Neil Murray and Dennis Mynard (author of ‘Salmons and Sons: The Tickford Coachbuilders’)

ニューポートパグネルとアストンマーティンの切っても切れない関係が始まったのは、1955年のことだ。しかし、ファクトリーがあったティックフォード通りには、そのはるか前からコーチビルダーの伝統が息づいていた。

現在に続くアストンマーティンの礎を築いたデイヴィッド・ブラウンには、相乗効果を見抜く力があったようだ。ブラウンはアストンマーティンを手に入れた1947年にラゴンダも買収した。これによって、W. O. ベントレーの生み出したエンジンをアストンに搭載できるようになったばかりか、車両デザイナーのフランク・フィーリーやエンジン設計者のウィリー・ワトソンら優秀な人材も大勢手に入れた。同様に、1955年にニューポートパグネルにあるティックフォード社を買収した際にも、幅広い技術がアストンマーティンにもたらされた。なにしろ、そのコーチビルダーの伝統は、なんと125年も前から受け継がれてきたものだからだ。
 


サーモンズ・キャリッジ・ワークスが設立されたのは、1830年のことである。その地、ティックフォードエンドは、当時はニューポートパグネルとは独立した集落だった。19世紀後半に会社はさらに成長してサーモンズ&サンズとなり、よく知られているティックフォード通りの「あの場所」に工場を構えた。現在はアストンマーティン・ワークスの本拠地となっているが、当時は材木置き場で、その裏は製材所だった。道を挟んだ向かい側には「サニーサイド」と呼ばれる屋敷があり、ルーカス・サーモンズが1955年に亡くなるまで住んでいた。

サーモンズが初めて自動車のボディを手がけたのは1898年のことで、地元下院議員が所有するダイムラーだった。その後は、パナールやメルセデス、ロールス・ロイスをはじめ、十数社にのぼるメーカーのボディを製造した。通常シャシーは汽車で運ばれてきて、駅からティックフォード通りまでは馬が曳いてきたという。田舎町をさぞ賑わせたことだろう。
 
1912年には、新たに建設されたボールトン&ポール社の飛行機の格納庫にショールームを開いた。「オリンピア」と呼ばれるこの建物は現在もあり、建設から1世紀となる2013年からは再びアストンマーティン・ワークスのショールームとして使われている。「ティックフォード」というブランド名が誕生したのは1925年のことだ。1930年代には、バート・シックペニーというドラフトマン兼デザイナーが才能を開花させる。シックペニーはアストンマーティンでも車体の設計・開発で重要な役割を果たし、その活躍は1965年に亡くなる直前まで続いた。
 
1939年に地元のビジネスマン、イアン・ボズウェルがサーモンズを買収するが、その後もサーモンズ家は積極的に関与を続け、社名がティックフォードLtdとなったのは1943年のことだ。第二次世界大戦が始まると求められる仕事も変わり、砲弾や爆弾の薬莢も製造した。



しかし、戦後は国全体が貧窮し、会社がかつての繁栄を取り戻すのは容易ではなかった。自動車業界は急速に変化し、小規模メーカーの合併が相次いで、大規模・大量生産が主流となりつつあった。そんな中でもティックフォードは、1950年にオースティン・ヒーレー100 のプロトタイプを造り上げる。ローバーやMGには巧妙なルーフを提供し、アルヴィスやヒーレーのボディ製造も続けた。そして1953年に、アストンマーティン・ラゴンダ(AML)から仕事が舞い込むのである。

 
当時、DB2とラゴンダ2.6リッターは大部分がロンドン近郊のフェルサムで製造されていたが、デイヴィッド・ブラウンは、高品質・少数生産に熟達した会社にボディ製造を委託するほうが経済的だと考えた。そこで、1953年から55年まで、DB2/4のボディはバーミンガムのマリナーズ社で製造し(パネルワークの大半はノーサンプトンのエアフロー・ストリームライン社が行った)、ラゴンダ2.9リッターのボディは1953年から58年までティックフォードに委託された。ラゴンダ2.9はバート・シックペニーがデザインし、フランク・フィーリーによる旧式の2.6から格段の進歩を遂げた。
 
ニューポートパグネルでアストンマーティンの製造が始まるのは1955年のことだ。それまでは、マリナーで製造したDB2/4のボディを、ヨークシャーにあるブラウン・グループのトラクターメーカーに運搬し、そこで製造したシャシー、エンジンと組み合わせていた。

しかし、マリナーとの契約を更新できず、別のボディビルダーが必要になると、当然のことながらティックフォードに目が向けられた。ブラウンは1954 年12 月にティックフォードの買収に合意し、翌1955年初めに買収が完了した。同じ年にDB2/4 MkⅡが発売され、これがニューポートパグネルで製造する最初のアストンとなり、側面には「ティックフォード」のバッジが付けられた。従来通りシャシーはヨークシャーで製造されたが、これ以降は、ティックフォード通りの門から完成したアストンマーティンが送り出されるようになったのである。
 
間もなく、それまでのモデル(通称「フェルサム・カー」)を引き継ぐ新車の開発が始まった。1957年にはプロトタイプが完成し、翌1958年にDB4が人々の前に登場する。ニューポートパグネル時代の幕開けを飾るまったく新しいアストンマーティンの誕生だった。シャシーの製造は引き続きヨークシャーで行われ、デイヴィッド・ブラウンがAMLを手放す1972年まで続いた。
 
しかし、エンジンの製造はDB4の生産開始にあたってニューポートパグネルに移った。トリミングの技術はティックフォードに元々備わっており、こうしてシャシーを除くすべてがニューポートパグネルで製造されるようになったのである。その後50年にわたって続く時代の始まりだった。

翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Stephen Archer 

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事