ラゴンダブランドの復活をかけて│美しい白鳥と化したラゴンダ V8 プロトタイプ

Photography:Charlie Magee

1960年代の終わり、アストンマーティンはニューポートパグネルでもがきにもがいていた。自らの再生とラゴンダの名前の復活を果たせないかと。偶然みつかった1台のプロトタイプには、そんな痕跡がにじんで見えた。

マンチェスターに住むJLホプキンスさんは、"まずい買い物" をしたのかもしれない。アストンマーティン・ラゴンダ・リミテッドから直かに車を購入、AMLから送られてきた1975年6月6日付けの手紙には「中古のラゴンダ・サルーン」と明記され、登録証明書と交通省発行の書類も同封されていたのに、だ。彼がこの車にいくら注ぎ込んだかは知らないが、その車には具合のよくない部分がいくつもあったのだ。
 内装にはたばこの跡、床には水が流れた形跡もあった。片方のパワーウィンドウは動きが渋く動作もノロい。インテリアはあちこちが損傷していて、ボディの塗り直しも雑だ。数え上げたらキリがないほど劣悪な状態だった。ホプキンスさんは8月6日にメーカー宛に手紙を送り、修理をしてほしいと頼んだ。手作りの車は修理もハンドメイドでないと直せない。
 アストンマーティンの言い訳はこうだ。当時会社は大変な状況下にあって、この車が売れたときは経営破綻から資産も底をついていた。ファクトリーは1975年初めに閉鎖され、整備部門、パーツ部門は機能していないも同然。しかし6月27日になると新しいオーナーが登場し、100 万ポンド以上を投じてアストンに再生の道を拓いた。そんな好転材料もあってホプキンスさんの車は内装を新しく
してもらえることになった。それを伝える手紙のレターヘッドにはLagondaとLimitedの間に「1975」の文字があった。受け入れ体制の変化を物語るものだが、これはいうまでもなく新会社の名称だ。
 ホプキンスさんは、しかしまだ満足していなかった。レジスターブックに彼の名前がまだ載っていなかったからだ。9月9日の時点でのオーナーはピーター・ビッグスとなっており、ビッグスはその後2010年まで所有することになる。AML(1975)リミテッドは整備部門が活動を始めたこともあって、まだ手を付けていない箇所を直すにはこれだけかかると巨額の請求書をホプキンスさんに送った。11月のことだ。このときである。これが普通の車でないことを認識したのは!

--{美しい白鳥に変身}--

当時、じつはオリジナルのDBSを引き延ばし、ラゴンダのバッジを付けた8台の4ドアモデルがあった。そのうちの最初の1台がホプキンスさんの車だ。のちの1974年から76年の間に作られる他の7台は、もう1台の車よりデザイン面で明らかに優れた部分がいくつも見てとれた。ふたつのヘッドライトの間の広大なエリアにラジエターグリルを構えるラゴンダらしいフロントグリルがそれだ。

同時にアストンV8ファミリーに共通する顔でもある。だがホプキンスさんの車はちょっと違った。4つのヘッドライトと細かい格子状グリルを持っていた。このグリルはDBSの顔として最初の5年間採用されることになる。そう、彼が購入した車はDBSのプロトタイプだったのである。
 MP230/1のシャシーナンバーは、1969年5月5日に最初の登録を受けている。そして70年1月16日まで報道機関に発表されることはなかった。DBS V8は1969年のアールズコート・ショーで発表の予定だったが、まだ実験段階にあったV8エンジンは多くの部分で開発続行中だったため延期され、4ドアモデルのお披露目もできなかったのである。だから公式写真の発表は期待をもって待たれた。私は初めてそれを目にしたとき、DBSのボディシェイプをまとった4ドアサルーンがとても上品に見えたことをよく覚えている。それはDBSを悦楽の世界に押し上げるものであり、ウィリアム・タウンズがそのとき同時にふたつのボディスタイル構想を抱いていたことが明らかになった瞬間であった。その白黒写真では色合いなどわかるはずもなかったが、プロトタイプの外観はロマンパープルに塗られ、室内は深紅の内装、シートとドアトリムにはベルベットが貼られていた。
 これは明らかにサー・デイヴィッド・ブラウンの好みであり、プロトタイプは彼の要求を具現化しながら、自身の足として用いられたのであった。彼はその仕様のままラゴンダとして生産化されることを望んだが、実際はそうはならなかった。当時工場責任者であったダドリー・ガーションがのちに著わした『アストンマーティン1963-72』で、そのあたりのいきさつが詳しく語られている。
 当時のアストンマーティンではラゴンダという名前は古くさいものと見ており、「かなりの地位にある会社の上級役員」(それが誰という記述はない)からの指令で、新型サルーンの全貌は発表当日まで極秘とされていた。言うまでもなくバッジの件である。ガーションはこの役員の指令について、報道の撮影が解禁される数分前に、用意されていたラゴンダのバッジを付けてもかまわないと、見て見ぬふりをしたのではないかと分析している。
 後日、その上級役員はロンドンの主要なディストリビューターからラゴンダの名前を使ったことを絶賛されたという。そしてサー・デイヴィッドには、それを聞いた役員が喜びを抑えきれずいたことが報告された。こうしてラゴンダV8は晴れて1961年にラピードに与えられて以来のビッグネームを取り戻した。サー・デイヴィッドはさらに数年間、ロマンパープルの車を愛用し、AMLがカンパニー・ディベロップメンツになる1971年の終わりまで乗り続けたのである。

MP230/1はそれからニューポートパグネルの近くに保管されることになるが、1974年になるとその複製が作られるようになる。それ
が例の7台だ。その仕様は様々で、オリジナルの5リッターエンジンに燃料噴射を備えるもの(V/500/009/P)もあれば、5340cc
に排気量を拡大したうえにウェバー・キャブレターを積むV/540/008/EEもあった。
 蹄鉄型のフロントグリルをもつこれらのレプリカたちは、プロトタイプよりも明らかに生産車らしく見えた。マイケル・ボウラーは彼の著書『アストンマーティンV8』の中で、1976年の初めに当時の共同経営者だったジョージ・ミンデンとふたりでファクトリーを見て回るガイドツアーを記事にしているが、それはちょうどラゴンダ4ドアの生産が開始された直後のことであった。複製ラゴンダはアスト
ンV8をベースに、真ん中からちょうど半分に切って、11インチの部材を挿入してホイールベースを延ばしていた。これを見たミンデンは、やがて専用の治具が必要になるんじゃないかと言っていた。

だが、"ウェッジ" とあだ名されたラゴンダはその年の後半をもって生産を休止した。1974年の時点で1万4040ポンドという高コストも問題だった。2年後にはもっと上がる。1976年、アストンV8でも1万1349ポンドなのに、1万6731ポンドの値が付けば手を
出す人はいないと踏んだのだろう。

やはり隠せぬスポーツサルーンの血統

プロトタイプ・ラゴンダはいま、デスモンド・スメイルのショールームの片隅で眠っている。ボディはわずかに紫がかったブルーに塗り直され、かつてホプキンスさんをうんざりとさせた再塗装はしっかりと直っていた。室内を見れば、深紅のヴェロアはすでに遠い過去のものとなり、ブルーのレザーに取って代わられている。この状態だったら1975年でも売れる車になっていたかもしれない。カーペットは一新、この車が最後に売りに出された2010年にデスモンド・カンパニーが入念に仕立てた。けばけばしかったインテリアはもう過去のものとなっている。

タウンズのボディは、力強いシェイプとラクシュリーサルーンらしい控えめなフォーマルルックを融合したものであり、とくにテールの眺めは叙情的ですらある。足元は、1970年代製のGKNアルミホイールが、丸々と太った235/70R15のエイヴォン・ターボ・スチールタイヤを履く。オリジナルのプレスフォトではワイヤホイールだったが、パワーみなぎるV8エンジンに対処して急遽履き替えたのだと思う。フロントとリアのバランスは"均整がとれた美しさ" というほどの完成度ではないが、DBS やV8 では見られないバンパーの高さほどから大きく開くトランクリッドはユニークだ。 

リアドアにはローバーP6から持ってきたドアステーが付いている。それを開けて乗り込むと、想像以上に広いヘッドルームが広がっていた。レッグルームもゆったりで、ホイールベース延長分の半分がレッグルームの拡大に充てられているのが実感できる。広大なフットルームが生まれた理由は、ドライバーズシートに座るとよくわかる。

私はこれまでDBSファミリーの車でこんなに高い着座位置に座ったことがない。ダッシュボードを見下ろすような格好は奇妙なものだが、腿にステアリングホイールが当たるまでシートを上げれば、バルジ状のボンネットの大部分さえも見渡せてしまうほどだ。
 
一種のアートともいえるインストルメンツは200mph(約320km/h)まで描かれた速度計、160psiまでの油圧計などからなる。普通に走るぶんならエンジンの油圧は90psiくらいあれば事足りるが、エンジン設計者のタデック・マレックはアルミブロックの排気量を拡大したときに油圧が落ちたことへのトラウマから、油圧管理に神経をとがらせていたのがよく理解できる。
 
ボディの軽量化とドアを2枚追加したことはボディ構造を弱めてしまう原因になりかねない。そのため、シルの部分はボックスセクションにされると同時に大幅に強化された。また、エンジンに新しく採用されたセンターベアリング構造と、駆動系のより長いプロペラシャフトの採用は、ともに振動を低減するためのものである。よって、走行時に大柄だなと感じさせるラゴンダも、扱いはアストンV8のように楽なのである。
 
小径のステアリングホイールが過剰なほどのパワーアシストで成り立っているのは、コーナーにおける車の大きさを感じさせないごまかしでしかないが、ドライバーはこれによりひるむことなく気合いを込めてコーナーに入っていけるのも事実だ。乗り心地も充分に"文化的な" レベルにあるが、受け継いだ遺伝子はどうしてなかなか乗員を甘やかすようなことはしない。もっとも、アームストロング製ダンパーの調整機能をうまく設定できれば、の話だが。なにしろこの車はまごうかたなきスポーツサルーンなのだから。
 
さて、あなただったらいま、この美しい白鳥にいくらの値をつけるだろうか。過去にオークションにかけられたときは30万ポンドを超えた。それでもアストンマーティンの価格が高騰する直前の値である。なおかつ、この車には特殊なストーリーがある。デスモンド・スメイルは再び売りに出そうとしている。この車を最新のラゴンダ・タラフと並べたら、これ以上ない"アイデアル・ペア"になりそうに思うのだが、いかがだろうか?

編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation:Hidehiko OZAWA Words:John Simister Photography:Charlie Magee

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