「世界最高」と認められたポルシェ356の物語

Photography: Delwyn Mallet Archive pictures: Porsche AG



ポールが唯一1950年スペックから離れざるをえなかったのが排気量で、オリジナルの1086ccから1286ccに拡大している。1951年にポルシェは排気量を大きくしたエンジンを発表した。その作業はボアの大きなマーレ製合金シリンダーバレルとピストンを取り付けるだけだったので、多くのオーナーがエンジンを変更することを選んだ。この変更によって性能の向上はもちろん、リアオーバーハングの重量を抑えることができた。後方に偏った重量配分に加え、細い16インチホイールとタイヤ、アンチロールバーがないうえに、レバー式ダンパーやスウィングアクスルだったことが組み合わさって、突然にオーバーステアに転じることがあり、修正が不可能なことも多かった。ドイツ語に、望ましいコーナリングを表現する"wischen"という造語がある。

難しいコーナー
へ飛び込む前に"wish(祈る)"ことだと思うかもしれないが、これは"wiping(拭く)"という意味で、テールを流し、ステアリングを何度も左右に切って修正することを指す。コーナーにオーバースピードで入ったら、間違いなく"wischen"しながら"祈る"はめになる。

ごく初期のポルシェ356のことを、特別仕様のボディを架装したフォルクスワーゲンと表現するのは、出自の低さをとがめてのことではない。それよりも、ポルシェ博士の手になるKdF車の設計がいかに優れていたか、基本パーツの制限から開放されたときのポテンシャルがいかに大きいものだったかを強調しているといえる。状況さえ許せば、ポルシェはこの356を1939年に製造・発売することも可能だった。



もし、その頃にこの車が道を走っていたら、
自動車界が激震していたに違いない。実際に登場した1950年でさえ、際だった存在であった。1950年9月、シュトゥットガルト近くのソリテュード・サーキットでフェルディナンド・ポルシェ博士の75歳の誕生日が祝われた。それを祝福して、ポルシェがヨーロッパ中から集った。その年の11月、フェルディナンド博士はフェリーを伴って、既に大成功していたフォルクスワーゲン工場を訪問している。戦前に自身が監督していた製造ラインだ。帰宅したその夜に博士は脳卒中に倒れ、1951年1月30日に亡くなった。ポールの車がラインを離れたのはその1カ月前のことであった。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words & Photography: Delwyn Mallet Archive pictures: Porsche AG

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