「運転した中で最も獰猛な車」と伝説のドライバーが語るポルシェとは?

Photography:Ian Dawson



今日、この車はディジョンでレースを終えた状態のまま、現在のオーナーであるケヴィン・ジャネット氏の許で余生を過ごしている。とはいえ、依然として近寄りがたい雰囲気に満ちているのは、飛び石の跡と手書きのマルティニ・ストライプが当時のまま残されているのと、細部に試行錯誤を繰り返した跡が開発車であることをはっきりと示しているからだ。勝てる車に仕上げようとチームが1976年の暑い夏にもがき苦しんだ様子まで見えてくるほどだ。 

1976年シーズンでいえば、チャンピオンシ
ップを戦ったジャッキー・イクス/ヨッヘン・マス組、ロルフ・シュトムレン/マンフレッド・シュルティ組の2台のマルティニ・カーだけがフルスペックの935であった。一方で、ポルシェと近い関係にある顧客には特別な配慮がなされた。グループ4に属する何台かの934にグループ5仕様にアップデートできるパーツが供給されたのだ。デレック・ベルに提供された車もそうした1台だ。彼はそれで935のパワーを初体験することとなる。その年のル・マンのあと、彼はポルシェから次のエステルライヒリング1000kmにクレマー兄弟が所有する934/5で出ないかとのオファーを受ける。それにはファクトリーが用意した新品の2.85リッターエンジンが搭載されていた。レースでは大いなる活躍を見せ、ヴァーン・シュパンとのコンビで総合4位を得た。

翌1977年、デレックは他のプライベートチームからゲストとして、これもまたワークスの息のかかった935でレースに参加する。そして1980年、デレックはその経験が買われて晴れてファクトリーチームの一員となり、ル・マンに924カレラGTで参戦した。それからの9年間、彼はファクトリードライバーとして活躍することになる。デレックは言う。「私が思うに1976年のポルシェへの復帰(デレックは1971年のフルシーズンをガルフ・ポルシェで戦った)は自分にとって本当に復帰したとはいえないものだった。そのあとポルシェはル・マンでドライブするよう繰り返し声をかけてくれたが、私はルノーとの契約が1980年まであって果たせなかった。ルノーとの契約が終了した1980年、私は喜び勇んでポルシェに行ったものだよ」



魅惑的な917、誰からも愛された936と956──華やかなプロトタイプスポーツカーの間に生まれた935だが、そこでの経験はデレックにとって楽しいものだったのだろうか? 

「私の頭に焼き付いている935の印象とい
えば荒々しい動きをする車だということだよ。車に乗り込んだらもう格闘するしかない、そんな車なんだ。必要なのはどう折り合いをつけるか。ターボラグと急に向きを変えたがるテールヘビーとのね。エンジニアとしてはすべての馬力を使ってコーナーを回れるような車を作らないといけないんだけどね。それじゃ本当に野獣だって? そう、私がこれまで運転した中で最も獰猛な車だよ」
 
デレック・ベルならではの重みのあるコメン
トだったが、ケヴィン・ジャネットのメカニックにそれを味わう余裕はない。デレックが運転できるよう001の準備に忙殺されていたからだ。デレックは巧みにロールケージのチューブや入り乱れた配線をかいくぐって洞窟のようなキャビンに辿り着いた。デレックの姿はさながら装甲車の砲塔に着座する司令官のようであった。

いよいよ走行開始。935が放つエンジン音は攻撃的というよりはターボによってやわらげられたものだった。コーナーを抜ける姿は一度見たら忘れられない。私は1976年のシルバーストーンを走る002を見る思いがした。935はコーナーをさっと走り抜けることはしない。どちらかというとギクシャクしており、スムーズさに欠けた走り、それが935の特徴のようだ。

デレックがアクセルをバックオフするたびに車のリアからは指の長さほどもある黄色い炎が噴出した。コーナー手前で935はパチンコを打つようにぐっと身をかがめると、次の瞬間ストレートに向かって勢いよくはじけ飛ぶ。そんな走り方であった。コーナーを回っているときはけっして敏捷とはいえない動きなのだ。
 

編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation:Hidehiko OZAWA Words:Peter Morgan 

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