グランドキャニオンをメルセデス・ベンツ 300SL ガルウィングで旅する

Photography:Patrick Ernzen



このような車がその全生涯を過ごしていたのは、ドンの家からわずか数マイルしか離れていない場所だった。ドンはますますこの車に惹かれ、リヒトマンのガルウィングをよみがえらせようと、マーク・アリンが率いるニューハンプシャー州の"レア・ドライブ・カンパニー"と契約を結んだ。ドンの目標はなかなかのチャレンジであった。このメルセデスをサーキットに復活させようとしたわけではないが、クラシック・ラリーやツーリングのイベントでできる限り活躍させることを目指したという。

アリンは300SLに熟達している。マサチューセッツ州に拠点を置く、著名なスペシャリスト、"ポール・ラッセル・アンド・カンパニー"に勤務していた頃から、彼は30年以上にわたって300SLを手がけてきた。300SLは「同時期に生産された車の中で最高のスポーツカーだ」と語る彼は、300SLに取り組む時間を実に愉しんでいる。彼によれば、「300SLに世界が追いつくまでに、ゆうに10年の歳月がかかった」という。

リヒトマンの車を点検してみると、維持管理の行き届いた状態で、仕事はトップクラスであることがわかった。前述したエグゾーストのカットアウトもその好例だ。リヒトマンは、単にサイドパイプにカバーをボルト付けするようなことはしなかった。排気ガスの吹き戻しなどによる、さまざまな背圧から生じる乱気流を防ぐために、ストレート構造のパイプを加えたパラレル・エグゾーストを構築したのだ。本格的なエンジニアによる解決策といえよう。

リヒトマンが300 SLのチューナップに用いたパーツの80%ほどは、メルセデス・ベンツから直接取り寄せることができ、作業工程は少しばかり容易になった。しかし、美しい車体には、この車が眠り続けているかぎりは見出されることもなかったであろう驚きの数々が潜んでいた。ひとつのブランド、いや、ひとつのモデルのためだけに特別に施された深い専門的技術は、ラリーやツーリングでこそ輝きを増すものだった。

人々の羨望を集める車には、オーナー向けの特典が用意されていることが多い。少なくとも米国ではそのように見える。おそらく、もっとも代表的な例はフェラーリ250GTOツアーだろう。億万長者たちはこのツアーに参加するためだけに250GTOを探すという。また、米国のコレクターであるサム・マンが創設したデューセンバーグ・ツアーもその好例だろう。このツアーは一流の米国ブランドであればあらゆる車種を対象とし、米国の西部、南東部、中西部の北側、ニュー・イングランド・エリアなどで開催が続いている。



サムと妻エミリーも、愛車の1955年ガルウィングで300SLクラシックラリーにエントリーした。夫妻は300SLロードスターも所有しており、2台は同じガレージに収まっている。「ワンメイクイベントのよいところは、同じ車を所有し、実際に走らせたりする経験談を交歓できることです。それに、特定の車を広くパブリックな場に持ち出すには、素晴らしい方法でしょう」とサムは語る。

こうして、ドン、私、そして私が役目を奪わない限りは公式コ・ドライバーであるアンドリュー・リップマンは、ドンのSLで走る爽快な週を心待ちにした。「世界中を打ち負かしたレーシング・マシンをもとに開発されてから64年を経た今でも、この車は真にドライバーのための車だ」とドンが熱を込めて話す。

ただし、手ごわいパフォーマンス性能を生かすためには、この車に丁重に礼を尽くした作法(こつ)が必要になることも彼はわきまえている。ドンは、「この車は"トレーリングスロットル・オーバーステア"を誘発しやすいことでも有名で、少々注意が必要です」と語る。まぎれもなく、ガルウィングの"尻振り走行"にまつわる数多くの逸話を思い出しての言葉だろう。この状態は、急旋回などで急激な荷重移動が起きたときに、ロールセンターの高いスイングアクスル式サスペンションの悪癖である急激なキャンバー変化が起き、タイヤのグリップが不足してしまう。唯一の解決策は、カウンターステアをいくらか切り、ブレーキを踏まずに、逆に強く加速することだ。確かに、集中力を要求されるテクニックだ。

私たちが走ったルートは壮大のひと言に尽き、スコッツデールからセドナに向かい、広大な砂漠を抜けて渓谷や山峡に入り、グランド・キャニオンを目指す。叙事詩のように荘厳な風景は、この車の背景にぴったりだ。曲がりくねった地形も、この車ならではの流儀に合わせて運転すれば素晴らしい走りを見せてくれる。ルートに選ばれた道は、ガルウィングが全盛期にレースカーとして放たれたような道路だ。特にカレラ・パナメリカーナ・メヒコのルートを彷彿とさせる。

ガルウィングの挙動の機微を理屈抜きで感じるには、このラリーはまさに最高の選択肢だろう。標高が徐々に変わるルートを、目的地をめざして疾走し、コーナーをクリアしていく。曲率が小さなコーナーとの格闘はおおいに愉快だ。もちろん、気をひきしめてかかったのはうまでもないが。

それにしても、ガルウィングの運転は常に難しいわけではない。時速95mph(約150km/h)で流している分には、実に清々しい。安定感があり、路面をしっかり捉え、反応も良好だ。おかげで私はリラックスでき、借用した高額車を運転していることも忘れて、ペダルを踏む足をすばやく動かしながら運転を満喫することができた。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo. ) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:フルパッケージ Translation:Full Package Words:Donald Osborne

無料メールマガジン登録   人気の記事や編集部おすすめ記事を配信         
登録することで、会員規約に同意したものとみなされます。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事