市販車と同じ装備でル・マン24時間を走り抜けたアストンマーティンとは?

Photography:Jamie Lipman

2008年ル・マン24時間レースGT1クラスで優勝したこのDBR9。パウダーブルーとオレンジで塗り分けられた、ガルフオイルカラーのアストンマーティン・レーシングカーだ。素晴らしいことにこの009は、シャシー、エンジンブロック、シリンダーヘッド、ギアボックスに至るまで、市販車と同じであったのだ。リチャード・ミーデンがレポートする。

長らくアストンマーティンはル・マンに魅せられてきた。だが安定しない財務体質もあり取り組みは散発的で、予算は増えず自社内でのコンペティション部門も発展しなかった。1959年以降の負けっぷりは、勇敢なる英国車、そんな言い方で多くのファンを獲得したが、トロフィーの数は少なかった。

DBR9はその点、違う。2005年シーズンにデビューしたこのマシンは、アストンマーティン・レーシング(AMR)の第一号車。ゲイドンの本社と、バンベリーを拠点とするモータースポーツ・エンジニアリング会社であるプロドライブによるジョイント作品だ。この2社は地理的にも好都合であるだけではない。

提携の数年前、
プロドライブはプライベートの予算内でフロントV12エンジンのフェラーリ550マラネロをベースにGT1レーサーを開発、成功を収めた。そこからプロドライブのボスでアストンマーティンの重役であったデビッド・リチャーズは、そこからCEOのウルリッヒ・ベッツ博士とプランを練った。当時のニューモデル、DB9のグループGT1カーでル・マンに復帰し、クラス優勝を狙ったのだ。

GT1のルールは大幅な変更を認めていたが、DBR9はシャシー、エンジンブロック、シリンダーヘッド、そしてギアボックス搭載位置も市販車と同じままだった。一方でダウンフォースを引き出すため、ボディワークは高度に手が加えられ、ほぼワンオフの軽いカーボンで製作された。GT1の面白さは、元のサイズを逸脱してワイド化されても、市販バージョンとの共通性が見てとれることだ。生まれ変わって独立したばかりのアストンマーティンにとってはマーケティングの演習であり、DBR9は新たなロードカーにカリスマ性を与えるパーフェクトな方法でもあった。

DBR9は2005年のセブリング12時間で優勝して幸先のよいスタートを切った。同時に、貴族的なアストンマーティンに対して庶民的なアメリカのヒーローであるコルベットという、熾烈なライバル関係が始まった。それは実に激しいバトルだった。AMRはより高度にチューンされパワフルなエンジンとシャシーを擁するコルベットに苦しめられることになる。

2005年と2006年、ル・マンの伝統の一戦にコルベットは勝利し、アストンマーティンの野望を退けた。だが2007年、ここに紹介するDBR9は究極のリベンジを果たす。ダレン・ターナー、デヴィッド・ブラバム、リチャード・ライデルによってGT1クラス優勝、さらに総合5位でフィニッシュしたのだ。これはAMRの短い歴史の中で節目となる出来事だった。アストンマーティンのプロッフェッショナリズムや意志、スキルレベルの高さを証明し、名実ともトップ・コンテンダーとなったのだ。翌2008年のル・マンGT1クラスをアストンマーティンが制覇した時、あのガルフ・オイルのペイルブルーとオレンジのカラーリングによって、その伝説は強固なものとなった。

AMRのダレン・ターナーは、当時の日々をよく記憶していた。「アストンマーティンにとって何十年かぶりのワークス・レーサーで、その開発に初めてのシェイクダウンから関わったことには大きな意味がある。あの車は誕生からウィナーだったといえる。すべてのレース記録を見れば分かるが、ほとんどのDBR9がまずまずの成功を収めている。ル・マンにおけるGT1クラス完全優勝の一員になれたことは凄いことさ。振り返ってもDBR9でレースするのは本当にエキサイティングだった。というのも、かなりハッスルしないとベストが引き出せない車だからね。エンジンは独特の唸りを奏でるし、空力やブレーキの効きも強大。コルベットとの闘いはいつも白熱していて、だからこそ勝ったときは一層の甘美を味わえた。私にとってDBR9はGTレーシングの偉大な時代の名車で、宝くじを当てたら最初に買う車。それだけの価値がある」

編集翻訳:南陽一浩 Transcreation : Kazuhiro NANYO  Words : Richard Meaden 

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