茨城県の倉庫で見つかったマセラティ・メキシコ│38年ぶりに公道へ

2018年1月に公道に戻ったメキシコ。4月のヒストリックカー・イベント、マロニエ・オートストーリーに参加した時のショット。ボンネットなど上面には、細かなヒビが発生しているが、それらは浅く、雨でも問題ないとの判断だったので、軽く磨くだけに留めた。国内のヒストリックカー・イベントでは、しばしばその年輪を刻んだ塗面が話題になっているようだ。(Photograpy:Tadashi OKAKURA)

2017年、岐阜県の納屋の軒下でフェラーリの稀少モデルが発見されたというニュースが世界中を駆け巡った。そのアルミボディのデイトナは、40年間ほどそこで眠っていたという。今、私の前にある稀少なマセラティもまたこのフェラーリと同様に、バーンファインドされ、38年ぶりに公道に舞い戻った。

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"バーンファインド"についての説明など、本誌の読者の方々には必要ないだろう。長い期間、倉庫や納屋などの中に、人知れず長く保管されていたものが見つかることをいう。オリジナルの状態がそのまま残されていたり、走行距離が少なかったり、内外装の痛みが少なかったり、当時の使用感が残されているなど。さながらタイムマシンで過去から現代に送り届けられて来たかのようなコンディションであることから、ヒストリックカーの世界では高く珍重されている。

話を進める前に、まずマセラティのV8エンジンモデルについて簡単に触れておこう。

1957年のジュネーヴ・ショーでマセラティが3500GTを発表したことはよく知られているが、その背景には、創業以来レースに邁進していた同社らしい事情があった。それは安定した経営基盤の確保だった。同年、マセラティはファン・マニュエル・ファンジオのドライブでF1へのワークス参戦したほか、大排気量レーシングスポーツカーの450Sによる耐久レースへの参加など、多大な投資を行っている。その英断によって、F1ではフェンジオがワールドチャンピオンの座を射止めるという大成功を収め、マセラティ製レーシングモデルを求めようとするジェントルマン・ドライバーへの大きなアピールとなった。だが、こうした多大な出費ゆえに財政状況は悪化し、翌58年には政府の指導のもとで、資金の流れを再構築することになり、経営再建の切り札とすべく、高性能ロードカーとして企画されていた3500GTの完成を急ぐ決定が下された。もちろん、屋台骨である市販レーシングカーの生産が続行されたのは言うまでもない。レースで勝つために、整備や部品供給などが大きな収入源になるからだった。

この時期に開発されたV型4500ccエンジン搭載の450Sはコンペティションカーだけに留まらず、1959年には超弩級ロードカーの5000GT(ティーポ103)が派生している。その誕生の切っ掛けを作ったのは、当時、世界有数の高性能車エンスージアストであった、イランのパーレビ国王であった。3500GTに魅了されたパーレビ国王は、さらに強力なパワーを求めて、マセラティのチーフエンジニアであったジュリオ・アルフィエリに3500GTのシャシーに、450SのV8エンジンを搭載することを提案した。これに応えたアルフィエーリは450S用エンジンをベースに4937ccに排気量を拡大し、出力を325bhp/5500rpmとした専用エンジンを開発した。

こうした経緯で誕生した5000GTであったから、事実上、注文生産車であり、あまりに高価になったことから、顧客となったのは世界の富豪だけであり、32台が生産されたにすぎない。だが、5000GTを起点としてV8エンジン搭載の新シリーズがラインナップに加わることになった。

5000GTに続くV8モデルは、1963年のトリノ・ショーでデビューした、4ドアモデル"クワトロポルテ"(ティーポ107)だった。パワーユニットは5000GT用に改良を加えた4.2リッターのDOHC、V型8気筒で、4個のキャブレターを装着して260bhp/5200rpmを発生し、最高速度が213km/hに達する当時最速の4ドアセダンであった。開発コンセプトは、長距離を高速で快適に移動できるグランツーリスモであった。それ以前、グランツーリスモといえば2ドアのクーペが一般的であり、4枚のドアを備えることはマセラティにとっての新しい挑戦であった。ドイツや英国には高級な4ドアセダンはいくつか存在したが、クワトロポルテはそのどれよりも格段にスポーティーで高速性能に優れた存在であり、まさに唯一無二の存在としてマーケットに放たれたことになる。ボディはヴィニャーレが、「時間を金で換算することのできる人たちのためのビジネスマンズ・エクスプレス」というコンセプトに沿って、"過度に目立たぬ"端正なスタイリングを完成させた。1970年に生産を終えるが、その生産累計は679台であった。

1965年のトリノでは、実質的に5000GTの後継モデルに当たるメキシコ(ティーポ112)が登場した。広いガラスエリアが特徴の4座クーペのスタイリングは、クワトロポルテと同様にヴィニヤーレの手になるもので、エンジンはそれと同じ4.2リッターと、拡大版の4.7リッターを搭載し、それぞれメキシコ4200、メキシコ4700のモデル名を冠した。1966年の発売から68年の生産終了までの総生産台数は480台で、内訳は4200が350台、4700が175台であった。メキシコの市場はジウジアーロが手掛けたギブリに引き継がれた。

文:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Words:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 写真:岡倉禎志 Photograpy:Tadashi OKAKURA 取材協力:K氏+(株)ベニコ+(株)ブレシア 撮影協力:マロニエラン イン日光実行委員会+マロニエ オートストーリーフォーラム実行委員会

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