プリンス自動車のインサイドストーリ―第5回│プリンスが自作した1900スプリント

Kumataro ITAYA

1963年の東京モーターショーに彗星のごとく現れたプリンス1900スプリント。今回はその出自に迫る。

前回とりあげたスカリオーネデザインによる小型のスポーツカーCPRBと異なり、プリンス1900スプリントは公開された車両である。1963年の東京モーターショーで初披露された際の資料には次のように謳われている。

プリンス1900スプリントのデザインはイタリアのカーデザイナーであるフランコ・スカリオーネとプリンス自動車の井上猛の共作によるもの。

厳密にいうならば、この記述は正確さを欠いている。プリンスでは先に発表したスカイラインスポーツ(BLRA)の時も、ミケロッティと井上猛の共作と読める発表を行なっているのだが、ミケロッティ自身は同車を共作とは認識していないだろう。スカイラインスポーツのデザインをミケロッティに発注するにあたり、事前にプリンスからミケロッティサイドに共作を条件のひとつに挙げたものの、ミケロッティはそれをきっぱりと断っているからである。

ではプリンス1900スプリントの場合はどうだろう。結論からいえば、1900スプリントはプリンスの井上猛技師の作品と断言して差し支えないと思われる。これから、その誕生の経緯をみていくことにしよう。

プリンスがスカイラインスポーツに託した思いは深かった。スポーツ車課という専門部署を立ち上げ、スカイラインスポーツで各種モータースポーツに参戦している。ところが、ラグジャリー志向の強いスカイラインスポーツは戦闘力に乏しい。特に大きく重い車両がネックで、6気筒エンジンの搭載も検討されたが、運動性能の飛躍的向上は見込めなかった。

そこに浮上したのが、軽快なスポーツカーの企画である。オープンカーを前提としたスカイラインスポーツとは異なり、最初からクローズドボディのクーペ一本で計画がすすめられた。その背景には、国民車構想に沿ったリアエンジンリアドライブの小型セダンCPSKが石橋正二郎会長の鶴の一声でお蔵入りになったことにより、計画そのものが立ち消えになった小型スポーツCPRBがある。せっかくフランコ・スカリオーネによる日本車離れしたデザインが完成しているのに、それを闇に葬るのはあまりにもったいない、という思い。

中川良一さんを中心としたプリンス首脳陣は、早速次の手を考えた。それが1900スプリントの基本構想である。すなわち、もはや旧態依然としていたグロリア(BLSI)の車台を棄て、最新のS5系の車台を用いたスポーツクーペ。

余談ながらグロリアベースのスカイラインスポーツにはスカイラインの名が与えられ、車台からしてS5系スカイラインそのものである1900スプリントにはスカイラインの名がつかない。

スカイラインスポーツはBLRAの略号が物語るようにグロリアをベースにしているものの、当時のグロリア(BLSI)とスカイライン(ALSI)の差は主にエンジンの違いにすぎず、プリンスとしてはスカイラインベースとの認識が強かったからだろう。スカイライン(ALSI )ベースでグロリア(BLSI )がつくられたように、将来S5ベースの派生車が生まれた場合に備えて、あらかじめ1900スプリントからはスカイラインの名を省いたとも考えられる。更にいえば、プリンスは国際感覚の豊かな企業で、1950年代から海外のモーターショーに積極的に参加している。その際、海外における商標の扱いに苦労しており、そうした経験からもショーカーの呼称には、無難を期して数字と一般名称の組
み合わせを選んだのであろう。

話を元に戻す。モータースポーツに強い関心を抱くプリンスにとって、スカイラインスポーツに代わる戦闘力のある車両の開発は急務だった。しかも、プリンスの信念として、その車両は美しくなくてはならない。新しいS5をベースとしたクーペの構想は、以上のような背景によるもので、1900スプリントは、その名の通り、真のスプリントモデル=スポーツ車両として計画されたのである。

文:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA)

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