寒い国から帰ってきたモンスターマシン│驚くべき再生の物語

Photography: Stefan Warter Lipman



そして戦争が始まった。メルセデスがシュトゥットガルトに安全に隠されたのに対して、アウトウニオンの避難場所はドイツの東端、ツヴィッカウの工場近くの炭鉱だった。ドイツの降伏で戦争が終わった時、ツヴィッカウに進駐してきたのはソ連の赤軍だった。正確なことは分からないが、その時点で8台から10台の完成車があり、部品や組み立て半ばの車まで含めると、計13台ものアウトウニオン・レーシングカーが保管されていたと考えられている。その後間もなく、それらはすべて軍用トラックに牽引されて(目撃者の証言がある)、ソ連行きの貨車に積み込まれたという。

戦後の混乱の中で無用の長物と化したレーシングカーのことを気に掛ける人がいただろうか? こうしてアウトウニオンは鉄のカーテンの向こうに消えてしまったのである。

アウトウニオンと思われる車が、少なくともその一部が存在しているという噂が漏れて来たのは何年も経ってからだった。リガでは数人のエンスージアストが自動車クラブ設立の申請を政府に行った。当時の東側では、自動車クラブが政治的なものではないと認めさせるのは容易なことではなく、そのクラブ設立は全国的なニュースとなり、モスクワのジル工場のある教授の眼を引いた。彼はリガのクラブに連絡を取り、スクラップになりそうなレーシングカーがあることを知らせた。危ういところで破棄処分を免れたその車はヒルクライム用のアウトウニオン・タイプC/Dと判明、リガのモーターミュージアムに収められた。そして今、アウディが所有し、代わりに製作されたレプリカがミュージアムに展示されている。



だが、ここに並んでいる二台のタイプDはそれとはまた別の車両である。この二台が生き延びて、今ここにあるのは、ポールとバーバラのカラシック夫妻(P73写真)のおかげだ。ポールの両親はロシアからの亡命者だった。父親はロシア帝国陸軍の士官で、開戦まではユーゴスラビアに派遣されており、その後ミュンヘンで強制労働に従事させられていた。1946年にポールは伯父夫婦を頼ってアメリカへ渡り、市民権を得た。同じころ、バーバラも故郷のザクセン地方から米国で暮らす叔母の下へと海を渡ったという。たまたま出会って結婚した二人の写真を見る限り、彼らはどこも特別なところのない、ごく普通の夫婦である。しかし彼らの勇気と執念こそ、この二台のアウトウニオンが特別だと我々が考える理由に他ならない。

12歳のポール・カラシックは、戦争が勃発する前の最後のレースだった1939年ベオグラード・グランプリでのタツィオ・ヌヴォラーリの勝利に感動したという。単にポールは1939年9月4日の新聞の一面を見ただけだという人もいる。ちなみに、その日のトップ記事はグランプリで、英国とフランスがドイツに宣戦布告したという記事はずっと小さく扱われていた。しかしながらポールは、アウディ・トラディションの研究者であるトーマス・エルドマンに、自分は実際にサーキットにいたと語っている。

米国で成長したポールは、キリル語の能力を生かして地元の移民社会向けに墓石を売る事業を始め、その後不動産業へとビジネスを拡大した。ペブルビーチでグランプリを獲得したメルセデス・ベンツ540Kなどのクラシックカーのコレクションを始めたのはその後のことである。1970年代になって、ポールとバーバラは貴重な車を探して東ヨーロッパへも足を伸ばすようになった。ブルガリアでは珍しいメルセデス・ベンツとDKWを発見したが、それらを持ち出す手続きは言うまでもなく厄介なものだった。たとえば、ある役人は彼の車に新しいタイヤが必要だと不意に言い出し、1セットのタイヤを届けて初めて書類を受け付けてくれるというようなことだ。そこは東側なのである。



1972~73年ごろ、ポーランドに赴いたカラシック夫妻は、自動車クラブのメンバーであるタデウス・タブゼンスキーと会い、そこでロシアに存在するアウトウニオン・レースカーの話を耳にする。この出会いが、彼らを失われたアウトウニオンを追い求める、20年にも及ぶ長い旅に駆り立てることになった。ポールはアウトウニオンを再びベオグラード・サーキットで走らせることを夢見たのである。

ポールはアウトウニオンを探すためにロシアへの旅を決意したが、それには心配事があった。彼の白ロシア出身という経歴が、ロシア当局、とりわけKGBからの要らぬ注意を引くことになるのではと恐れたのだ。そこで、父親より目立たないと考えた娘のエレインが、代わりにロシアに出かけて政治的状況を判断することになった。彼女はポールの古い友人のオレグ・トルストイ(「戦争と平和」を著わしたレオ・トルストイの曾孫に当たる)を頼って、様々な情報を仕入れて来た。

インツーリストのパッケージ旅行の参加者として、ポールが初めてロシアを訪れたのは1982年になってからだった。それは国営旅行会社によるガイド付きのツアーだったが、それでも何とかガイドの目を盗んでオレグや彼の友人のウラジミール・サヴィッチと会った。このサヴィッチがモスクワ・ベテランカークラブとリガ・カークラブとの会合を設けてくれた。リガ・カークラブは、あのヒルクライムDタイプを救い出した面々で、ポールは実際にその車を見せてもらったという。もちろんこれはインツーリストの規則に反する危険な行為だった。

ロシア人愛好家たちの反応に力づけられて、ポールはその後もしばしばバーバラを伴って、時には賄賂として使う電化製品を携えて、ソ連を訪れた。しかしながら、アウトウニオンにつながると思われた細い糸はほとんどが途中で途切れていた。

編集翻訳:高平 高輝 Transcreation: Koki TAKAHIRA Words: David Lillywhite

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