チャーチル、アイゼンハワーを乗せ、モンティ元帥が愛した「ロールス・ロイス・ファントムIII」の数奇な物語

1937年ロールス・ロイス・ファントムIII(Photography:Tim Andrew)

「時速30マイルでは誰も戦争には勝てんぞ!」そう言い放った連合国遠征軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥が乗っていたロールス・ロイス・ファントムIIIはその後、モンティの愛称で英国民に親しまれたモントゴメリー英陸軍元帥の毎日の足となった。これは、その特別なファントムの数奇な物語である。

この特別なロールス・ロイス・ファントムIIIについては、何度繰り返してもよい戦時中のエピソードがある。この車のショーファー、パーシー・パーカーはその日、進捗会議に向かうためロンドンのイーストエンドを走行中、速度超過で警官に停車を命じられた。警官が手帳に手を伸ばし掛けていたその時、後席の窓が下げられ、カンザス訛りが鋭く吠えた。「時速30マイルでは誰も戦争には勝てんぞ!」声の主は連合国遠征軍最高司令官、米陸軍元帥ドワイト・D・アイゼンハワーであった。その警官は、走り去るファントムに手を振って見送るしかなかったという。だがアイゼンハワー元帥は、このファントムに乗った数々の歴史上の人物のひとりであったに過ぎない。

将軍たちの車
ミュリナー製コーチワークを持つファントムIII、シャシーナンバー3AX79は、デ・ハヴィランド・エアクラフト社のアラン・サミュエル・バトラー会長からの注文で、19世紀から続くエディンバラの老舗ディーラー、ジョンクロール&サンズが1936年の末にロールス・ロイス社に発注したものだった。

バトラーはおそらく、グラスゴーのケヴィンホールで開催されたスコティッシュ・モーターショーにジョンクロール&サンズが出展した、ミュリナー製ファントムIIIを見て、心が動いたと思われる。だが、もともとバトラーはロールス・ロイスの熱烈なファンであり、すでに20HPと3台のファントムI、2台のファントムII、3 1/2リッターと4 1/4リッターのダービーベントレーを所有していた。バトラーの一族はイートン校OBで、ブリストルとグロスターでの石炭採掘と、それに伴うコークスとコールタールの生産および地域のガス供給ビジネスで成功していた。

バトラーは大戦中にサンドハースト王立陸軍士官学校を卒業すると、コールドストリームガード近衛歩兵連隊に入隊したが、彼がフランスに移動になる前に休戦調停が成立。1919年にウインブルドンコモンに配属になった。そこはヘンダーソン大佐の飛行学校のあったハーンスロウからそう遠くない場所で、バトラーはここでアブロ504型複葉機による飛行訓練を受けることができた。1920年、バトラーは戦時のブリストル戦闘機の民生型ブリストルタイプ29型2座複葉機を手に入れ、1年後、ブリストル飛行学校で飛行免許試験に合格した。彼はカナダのニューファウンドランドに拠点を移すと、そこで航空測量の仕事を始めた。1921年、彼はデ・ハヴィランドに自分用に特別仕立てさせた飛行機を発注し、完成したDH37Aに姉の名前からとった「シルヴィア」と名付けた。

これを機にデ・ハヴィランド・エアクラフト社のジェフリー・デ・ハヴィランドと懇意になったバトラーは、1924年にデ・ハヴィランドの会長となった。しかし、会長になっても操縦棹を離すことはなく、英国内だけでなく欧州の飛行競技へも参加し、1928年には2座軽飛行機の世界スピード記録を樹立した。また空と同じように海にも興味を抱くと、ヨットマスターズの資格を取り、またも姉の名を冠した2本マストの自艇「シルヴィア」を駆って大西洋を四度にわたって横断している。

バトラーは精力的に働くと同時に趣味にも全力を傾ける、鋭いユーモアのセンスを持つ楽しい人物と評された。

編集翻訳:小石原 耕作 Trascreation:Kosaku KOISHIHARA(Ursus Page Makers) Words:David Burgess-Wise Photography:Tim Andrew 取材協力:P&Aウッド(www.pa-wood.co.uk)、「8台の偉大なファントム」展(2017年7月27日〜8月2日、ロンドン)

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