世界のラリーシーンを席巻したストラトス│ラリーのために造られた車

Photography:Matthew Howell



計画を進めるにあたって、フィオリオは新たなラリーカーの必須条件を頭の中でまとめていった。ミドシップで後輪駆動、小型で軽量(1000kg以下)かつ頑強、どんな路面にも対応できる調整可能なサスペンションを装備し、出力は250bhpほど。同じ頃、フォードもラリー専用のミドシップカー、GT70の開発に取り組んでいた。そのプロジェクトは数台のプロトタイプのみで終わったが、フィオリオにとっては、将来のラリーカーに対する自分のビジョンが間違っていないことを示す良い証拠だった。

このころ、各自動車メーカーは1960年代末にかけて、ラリーに国際的な権威を与えて知名度を高めるよう、モータースポーツを管轄するFIAに働きかけていた。この動きが1970年に実を結び、世界ラリー選手権(WRC)を1973年から開催することが発表された。それに付随して一新されたレギュレーションの中でフィオリオの目を引いたのが、グループ4のカテゴリーだった。大きくモディファイした車での参戦が可能であり、最低生産台数は500台(1976年に、2・・・・4カ月間に400台生産に削減)。彼が考えるラリーカーの基本的構成要件を満たしていた。

1970年、さらなる幸運が思わぬところから訪れた。そのころのランチアは、ボディデザインではピニンファリーナに重きを置いていたが、そこに割り込もうとカロッツェリア・ベルトーネが乗り出したのだ。ヌッチオ・ベルトーネは、11月のトリノ・モーターショーでランチアを驚かせようと考え、その仕事をチーフスタイリストのマルチェロ・ガンディーニに託した。ガンディーニは、車高が極端に低く、世間の度肝を抜くウェッジシェイプのストラトス・ゼロを描き出した。この名はスタジオに転がっていた木製飛行機キットの箱から拝借したものだといわれている。



フルヴィア1600HFのV4エンジンをミドに搭載したストラトス・ゼロは、ドラマチックなスタイリングにもかかわらず、メディアからの好評は得られなかった。しかしランチアの扉をこじ開けることには成功した。1971年1月にランチア本社から電話を受けたヌッチオ・ベルトーネは大喜びだった。ゼロに飛び乗ってトリノの市街地にあるランチアまで自ら運転していったほどだ。ゼロを元に開発が進められたわけではないが、ランチアの経営陣に大胆になる決意をさせたのは、間違いなくゼロの功績だった。フィオリオは初めからそのつもりだったが、ゼロの登場によってほかのメンバーの賛同を得ることができたのである。

フィオリオのビジョンを実現する仕事は正式にベルトーネに任された。プロジェクトはガンディーニに一任され、ランチアのレースエンジニアであったジャンニ・トンティから技術的なアドバイスを受けつつも、ほぼガンディーニがひとりで取り組んだ。指示書を受け取ったのは1971年3月初めだったが、8月にはフルサイズのモックアップが完成。11月のトリノ・モーターショーで、蛍光オレンジのボディ(この時はアルミニウム製だった)をまとったコンセプトカー、ベルトーネ・ストラトスが華々しいデビューを飾った。

だが、ここからが長かった。実際にストラトスが競技に登場したのは、ずっとあとのことだ。ホモロゲーション取得にはさらに時間がかかり、プロトタイプではなくグループ4として出走しWRCのポイントを獲得できたのは、1974年10月のことだった。ここまで遅れた一番の原因はフェラーリにあった。もともと、このV6エンジンはフィアットの援助なしには実現しなかったものだから、エンツォは供給を快諾したが、生産を担うファクトリー側が2.4リッターV6エンジンの供給を渋ったのだ。ランチアではベータ・クーペの4気筒エンジンに変更することまで検討された。決め手となったのは、マセラティのV6に変更するという脅し(実はゴッバートが考えたハッタリ)だった。これでようやくマラネロも重い腰を上げ、供給契約にサインしたのである。

しかし、その後もフェラーリからはぽつぽつとしかエンジンが供給されなかった。ホモロゲーションに必要な台数を製造する目処が立たない状況に、フィオリオとランチアのコンペティション部門は頭を抱えた。1973年シーズンへの参戦は夢と消え、1974年の参戦も危うい状況だった。業を煮やしたフィオリオは、一説によると(ナイジェル・トローの名著『Lancia Stratos, World Champion Rally Car』には証拠書類も掲載されている)、1974年10月までに必要台数が製造されたとする書類にサインしてしまった。実際に400台が完成したのは、翌年半ばだった。だがそれを気にする者はいないようだった。なにしろ、華やかなストラトスの登場によって、世界のラリーシーンが一気に面白くなったのだ。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Richard Heseltine 

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