ヴォアテュレット インディ500<前編>|JACK Yamaguchi's AUTO SPEAK Vol.13

1966年フジ・インディ。リードするカーナンバー43はジャッキー・スチュワート/ローラ・フォード。すでに大半がミドシップだが、フロントエンジン・ロードスターが1台見える。(Photography:Jack YAMAGUCHI)

"ヴォアテュレット"は、フランス語直訳で『準乗用車』、すなわち小型車を意味する。"巨竜の国"アメリカのインディにもヨーロッパ的ヴォアテュレット1.5リッター規則の時期があった。

スーパースピードウェイ
自ら運転し、地上を移動する新しい自由の手段、自動車を得た人間に『遠くへ、速く』なる願望が生まれ、大西洋を挟んだ2カ国で、距離と速度の挑戦の場が建設された。

イギリス・サリー州ブルックランズ・モーター・サーキットは、1907年に開場した『世界最初の自動車専用レーシング・サーキット』だ。また、世界最初の大傾斜バンクで繋げたオーバルコースとされる(アメリカでは、それ以前に専用コース存在説もあるが、競馬場の改装らしい)。

ブルックランズ建設のきっかけは、1903年、英国政府がイングランド全公道に施行した、一律20mph(32km/h)制限とする自動車法令であった。起業家、ヒュー・F・ロック-キングは、「こんなことでは、幼児期にある英自動車産業は、欧州勢、特にフランス車に太刀打ちできない」と同志を募り、資金を集めて建設した。

2本の直線をふたつのバンクで繋いだ全長4.43kmの変形オーバルで、内側には短いロードコースを設けた。また、ブルックランズは英航空産業発祥の地でもあり、1939年第二次世界大戦勃発で、モーターレーシングを中止し、巨大航空生産の拠点となった。

インディアナポリスの実業家、カール・フィッシャーは、1907年、完成したばかりのブルックランズ・モーター・サーキットを訪れた。彼は友人のフランスにおけるレース活動支援を通じ、アメリカにも高速走行テストのできるコースの必要性を痛感し、計画を進めていた。英国のキング、米国のフィッシャーともに、当時のフランス車の技術と性能に印象付けられ、自国車に危惧を抱いたのは興味がある。

インディアナポリス・モーター・スピードウェイは、4つのターンを持つ長方形コースだ。2本の長さ1kmの直線と、ターンの間を結ぶ"ショートシュート"と呼ぶ各200mの2本の直線から構成される、全長4kmのコースだ。バンク角度は比較的小さく、ターン1の侵入部が5.4度、エイペックス、8.27度、出口部5.14度で、資料によると最大発生横G 4.3とある。

開場時の路面は、グラベルの上を複層のタールとオイルを混合した砕石で覆ったものだった。だが、グリップ不足の危険が顕在し、同年には、1個4.5kgの煉瓦を320万個敷き詰めるという改装を行っている。現在は舗装コースだが、90cmの幅でオリジナルの煉瓦帯を残してある。

1920年代には、ヨーロッパ主要国でも高速オーバルコースが建設された。ミラノ近郊のモンツァ・サーキットにおける最初の大レースは、1922年にそのロードコース部分で開催された第2回イタリアGPであった。しかし、1928年にイタリア・モータースポーツ最悪の事故が発生、ドライバーと観客28人が死亡した。以来、1933年まではイタリアGPは、モンツァのオーバルコースで開催されることになった。1934年には再びロードコースに戻り、1980年を除き、現在に至るF1の舞台となる。

1954年、モンツァは大改装され、全長4.25km最大バンク角度30度のオーバルが新設された。1957、58年、イタリア自動車クラブは、モンツァ・オーバルでインディ・ロードスター群とヨーロッパ新鋭F1とスポーツレーシングカーの『新旧世界の激突』レースを開催した。これは別のストーリーとなる。

パリ郊外モンレリーは、大バンク付きオーバルとロードコースから構成され、1924年に竣工し、1925年フランスGPから二輪、四輪レースが開催された。

現在では、バンクを含むモンレリーを舞台に、ヘリテージカーやヴィンテージカー、モーターサイクルのイベントが開催されている。

文・写真:山口京一 Words&Photography:Jack YAMAGUCHI

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