スキージャンプ台を駆けあがるアウディ・クワトロ│ドライバーをしていたのは?

Photography: Stefan Warter

アウディ・クワトロがスキーのジャンプ台を逆走するCMがあったのを覚えておられるだろうか。そのステアリングを握っていたのは、クワトロの開発に貢献した筋金入りのラリードライバーだった。

ラリースーツを脱いだハラルド・デムートは、建築家のような風貌だ。白髪を短く刈り込み、落ち着いた色調の服に上品なデザートブーツを合わせ、フレームのない眼鏡をかけている。その第一印象もあながち間違いではない。インタビューのために私たちが訪れたデムートの自宅は、自らが設計したもので、チェコ国境に近いドイツ・バイエルン州の大自然の中に建つ。ここでデムートは育った。「車を乗り回す場所はたっぷりとあり、うるさいことを言う人間はまったくいない」と笑顔で語った。

定期的にマラソンに出場し、65歳とは思えないしなやかで若々しい肉体を維持している。一方、幅広いジャンルのレコードコレクションと、選び抜かれた数本のヴィンテージ・エレクトリックギターが、音楽の趣味もいいことを物語っている。

ハラルド・デムートという名は、ドイツのラリー界以外ではそれほど知られていないが、そのドライビングは多くの人の目に焼きついている。1986年のテレビCMがそれだ。アウディ100クワトロが雪に覆われたスキーのジャンプ台を逆走するという、衝撃的なムービーだ。そのステアリングを握っていた勇気あるドライバーこそ、デムートである。



「昔からずっとモータースポーツに夢中だった。親
譲りのものじゃない。10 歳か12 歳くらいから車に興味を持つようになった。最初のヒーローはF1のグレアム・ヒルだ。学校では、いつか有名なドライバーになると言って、みんなに笑われた。今でも当時を思い出して笑われるよ」とデムートは自身のルーツを語ってくれた。

笑うどころか、デムートは本当にプロのドライバーとなり、ずっとそれで食べてきた。まずラリーで活躍し、その後は映画業界でスタントマンとして活動している。

「まずはサルーンカーから始めた。いちばん安上がりな入り口だったんだな。ヒルクライムやスラロームに出たよ。ラリーもやったが、これは金がかかってね。特別なタイヤは使わず、とにかく力の限り速く走ったよ。当時のバイエルン州北部は東ヨーロッパに接していて、何もない場所だった。森の中をグラベルの道が走り、警察もいないから、RACラリーの練習には最適だったよ」

練習はやがて実を結ぶ。RACはデムートが最も得意としたラリーだ。初参戦は1974 年にトヨタだった。その後アウディに移り、1982年にはハンヌ・ミッコラに次ぐ2位フィニッシュを果たした。最終的には3 年にわたってデビッド・サットンのチームでグループB仕様のアウディ・クワトロを駆った。1986年にクワトロにとって最後のグループB参戦でステアリングを握ったのもデムートだ。

アウディがラリーチームの拡大に乗り出した背景には、名声を高めていたワルター・ロールの活躍があった。デムートがトヨタから移籍する頃には、アウディが驚異的なマシンを開発しているという噂が流れ始めていたという。

「私が、アウディがパワフルな四輪駆動車を開発し
ていると耳にしたのは、VWゴルフの仕事でフォルフスブルクにいたときだ。当初は1980 年にクワトロでラリーに参戦する計画だったが、1981年に延期になった。私は2 年間クワトロの開発に取り組み、チームを育て、自分も成長した。2 年間、アウディ80でドイツ選手権を戦いながら、クワトロの開発も進めていたんだ。だが、1981年のチームに私の場所はなかった」

「私は1 年間ドライブできなかった。しかし、チー
ム代表がヴァルター・トレーザーからラインハルト・ローデに変わると、ローデは『すべての仕事をやってくれたんだから、君を雇うつもりだ』と、私をドイ選手権にエントリーしたんだ。その年、私はチャンピオンになった」

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words: Glen Waddington

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