気が付けば世界有数のクラシックカーコレクターに│そのきっかけとは?

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ボブ・リーは世界有数の自動車コレクションを作り上げたが、生前、彼はコレクションを持つつもりは皆無だったと語っている。マッシーモ・デルボはリーが亡くなる直前に話を聞くことができた。

の話題でネバダ州のレノを最初に連想する人は少ないだろうが、実はかなり重要なコレクションがそこに存在している。それは1956年、チャールズ・H・レットスラフが西海岸初の認定フェラーリ販売店、MCM社(モダン・クラシック・モーターズ)を創業した時に遡る。オーナーは、後に世界有数のクラシックカー・コレクションを築いた、故ウィリアム・"ビル"・ハラーだった。



私がロバート・"ボブ"・リー氏を訪ねることになったとき、ビル・ハラーのような人物姿を想像していた。悲しいことに、私は氏が89歳で亡くなる前に会うことができた最後の数人となってしまった。訃報を受け取ってからというもの、エンツォ・フェラーリが亡くなるまで続いた友情について、氏が語ってくれた言葉の数々を思い起こしている。リーは1956年からフェラーリが亡くなる1989年まで固い友情で結ばれていたという。

「私の車に関わる最初の思い出は1945年に遡ります。それは
母の黄色いオーバーンでした。ここにある1台に似たモデルで(展示されているうちの1台を指差す)、その時、私は5歳くらいでした。母はかなりの飛ばし屋で、警察官に停められた時には、心配になった私は母が牢屋に入れられてしまうのか尋ねたほどでした。それにより牢屋に行かなかったどころか、罰金も免れました」リーはそう語り始めた。

起業家であったボブ・リーはハンティング・ワールドをはじめとして、様々な事業を立ち上げた。そして銃と車の2つの趣味を持っていた。いずれも膨大なコレクションだが、「私はコレクターではない」という。



「私には特定のテーマや明確なターゲットがないからです。単純に、自分が好きな、もしくは自分や家族にとって意味のある車を手に入れてきました。私の母が使っていたロールス・ロイスもまだありますが、母が気に入っていたから手元に置いてあるのです」そういいながら、部屋の向こうにある1台を指差した。

ニューヨーク育ちのリーは、めずらしい車を見ることができたが、多くの情報は雑誌から得たものだった。25歳の時、アフリカにサファリへ向かう途中(野生動物保護や狩りを運営する事業を行っていた)、イタリアへ立ち寄り、偶然、エンツォ・フェラーリに会うことができた。「彼は私を『アメリカ人の紳士』と呼び、フェラーリを買うことがあれば、アメリカの代理人であるルイジ・キネッティでなく、直接自分に電話してくれといってくれました」

その言葉を守り、1956年のニューヨーク・オートショーで250ボアノ・コンバーチブルを見かけたリーは、直接フェラーリへ電報を送り、購入することができた。

「キネッティはとても不服そうでした。彼の売上にならず、さらに安い価格で購入できたからです。ただ、その後はとてもよい友情を築き上げましたがね」とリーは振り返る。

車を案内しながら「1956年から所有していますが、ワンオーナーのフェラーリとしては世界中でもかなり古い方に入ると思います」という。250ボアノの周りには、カブリオレとクーペの410スーパアメリカのペア、元ピーター・コリンズの250カブリオレ、166バルケッタ・ツーリングの初回生産車(シャシーナンバー0002)、そして1949年にキネッティがル・マン24 時間を、そしてビオンデッティがミッレミリアで勝った166MMバルケッタ・ツーリング(0008)が展示されていた。

「フェラーリはマシンはもちろん、エンツォ・フェラーリ氏も大好きで、最初の1台を買ってからというもの、ほぼ毎年マラネロへ新しい車を買いに行きましたよ。セルジオ・ピニンファリーナとも仲良くなり、車がどんどん増えていきました。"偶然のコレクター"は私くらいでしょう」

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO(Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:数賀山 まり Translation:Mari SUGAYAMA Words:Massimo Delbò 

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