ジャガー創立者 ウィリアム・ライオンズ卿のために生産された「ジャガー Mk.X」

1961年ジャガー Mk.X(Photography:Amy Shore)



ウィリアム卿の誇り
この車が路上に出されたときの周囲の驚きと畏敬は、絶頂にあったに違いない。その理由のひとつは、これが1961年12月17日にブラウンズレーン本社工場の組み立てラインをラインオフした、コードネーム"ゼニス"と呼ばれる、最初の生産モデルの中の1台であったことだ。そして、もうひとつ重要なことは、この"7868RW"はジャガー社のカンパニーカーであり、使用者は他でもないウィリアム・ライオンズその人だったことである。つまりこの車は多くの時間をウィリアム卿が愛着をこめて「我が家」と呼んだ素晴らしく広大な邸宅で過ごした。邸宅は、ブラウンズレーン本社からはコヴェントリー市を挟んで南の反対側のレミントンスパ郊外にあるワッペンベリーホールにあり、今日、そこに約50年ぶりに戻って来たのである。

よく手入れされた砂利敷きの前庭で、ウィリアム卿の直感的な目は新型ジャガーの提案用フルサイズモックアップに注がれていた。戸外でのビューイングはウィリアム卿が好むデザイン構築の手法であった。Mk.V開発のころから、ほとんどすべての新型車開発の際、工場の敷地内に実物大のモックアップを置き、全体のフォルムはもとよりバンパーの形状や前照灯の位置や高さなどのディテールについて、実物によって確認していた写真が多く残っている。

デザインや自動車設計の専門教育は受けていないウィリアム卿であったが、その美的センスには非凡のものがあり、この実物をスタジオ内ではなく戸外で確認する手法が彼の審美眼をプロダクトに投影する最良の手法であったのだろう。卿は1972年に引退してからも頻繁にブラウンズレーンを訪れて助言を行い、ジャガー民営化後、初の新型車となったXJ40のデザインチェックも自宅の前庭で行った。この、ウィリアム卿が自らデザイン承認を下した最後のジャガーXJ40が発売されたのは、卿の死後1年後であった。

ウィリアム卿はMk.Xを日常の足として、3年間使った。この前庭からレディ・ライオンズとともにMk.Xの広大なパセンジャーシートにおさまり、ショーファーのドライブでビジネスの絶頂を謳歌していた自分の工場や多くのソシアルイベントへ出向き、また時にこの巨大なジャガーのハンドルを自ら握ってブラウンズレーンに出社した。XJ13が極秘のテストを行っていたMIRA(Motor Industry Research Association)のテストコースへ赴いた時も、Mk.Xの後席であった。また、1962年に工場労働者のストライキが計画された際、卿はショーファーに命じてこの長大な車で工場ゲートを塞ぎ、労働者の職場放棄を阻止したという、巷で流布されているエピソードもある。

「ボスの足」という特別の任務(ステータス?)が与えられた"7868RW"は、もちろん標準仕様ではなく、仕上げも特に念入りに行われた。当時、特にMk.Xの発表時には未だ一般的ではなかったエアコンディショナーや後部ドアのパワーウィンドウ、フロントシートバックの背面に備えられた後席用の折り畳み式ピクニックテーブルには、晩餐や観劇前、またパーティ前に最後の身だしなみのチェックに必要なバニティーミラーも備えられた。中でも特筆すべきは塗装で、通常の2コートに加え、これにはさらに4コート、合計で6層のオープラセントダークグリーン塗装が施されている。

編集翻訳:小石原耕作 Transcreation:Kosaku KOISHIHARA Words:John Simister Photography:Amy Shore

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