ジェンセンFF 時代の先を行き過ぎた先駆者

octane UK

FFの企画が決まったのは1962年の会議だった。ル・マンで優勝したことのあるトニー・ロルトがハリー・ファーガソン研究所を代表してジェンセンの幹部と話し合った。最初の計画は四輪駆動のC-V8を造るというもので、実物は3年後にアールズコート・モーターショーで発表された。ロルトはファーガソン研究所の最新技術を世に知らしめようと熱心だった。一方ジェンセンの首脳陣は、流用部品を使って成り上がった新興自動車メーカーといったイメージを払拭したがっていた。

1966年にアールズコートでプロトタイプのFF(ファーガソン・フォーミュラ)が登場した(インターセプターの名前が使われることはなかった)。だが、それは量産にはほど遠い状況だった。ジェンセンでは、チーフエンジニアのケビン・ビーティと、その後ティレルのデザイナーとなるデレック・ガードナーが、インターセプターを四輪駆動に変更する作業で昼夜なく働いていた。C-V8含め通常の車は、中央にシャシーのメインチューブが走っていたが、四輪駆動のトランスファーを付け加えるためには、それを外側に移動してサイドシルの中を通すしか方法がなかった。この部分は、スチール製ボディを支える重要な骨格であると同時に、ダンロップのマクサレットABSを司る真空チューブの役割も担っていた(これによってエンジントラブルの際も安全に停車することができた)。ホイールベースが4インチ(約100㎜)伸びたため、ボンネットを延長し、フロントスカートとフェンダーを小変更し、前輪ホイールアーチの後方の通気口が2本になった。

ファーガソンは研究所のロゴを入れることを希望したが、ジェンセンは反対し、グリルに"FF"、テールに"Jensen FF"と入れることで合意した。初期のモデルはルーフが艶消しのステンレススチール製だったが、コストの問題から変更され、塗装で銀色にすることになった。

ジェンセンの大胆な新作をメディアはこぞって称賛した。『Mot or 』誌は航空機生まれのアンチ・ロック・ブレーキについて「このシステムが命を救うこともあり得る。ブレーキとステアリング操作とコーナリングを同時に行うという通常の車では不可能なことを可能にしたのだ」と紹介している。

FFは、1967年のカー・オブ・ザ・イヤーにも選ばれた。ジェンセンを本格派へと押し上げたのは間違いない。だが、最先端の車だったにもかかわらず、利益を生み出すことはできなかった。1967年に発売されると、すぐに"弱い"というありがたくない評判を得てしまう。1968年に6017ポンドだから、手が届いたのは富裕層の中でも一部だけだ。
産業界のリーダーや芸能人は不具合があったら黙っていない。保証クレームが山積みとなり、ジェンセンは320台のFFを生産したところで1971年に匙を投げた。その前にシリーズⅡとⅢを作ってアップグレードも行ったが、バンパーやバッジを変更するといったデザイン的なものが主だった。

実に残念な終わり方だった。今、FFを運転してみれば、これほど古く、しかも車重1800kg近いにもかかわらず、これほど速く走ることに舌を巻く。後輪には63%のトルクが配分されるのだから、電光石火のスタートも朝飯前。その上、383cu-in(6.24ℓ)のクライスラーV8に仕事をさせたときのサウンドは、それだけで代金の元が取れそうなほどだ。

真実を有り体にいえば、成功するにはFFはあまり
にも大胆で、高額過ぎたということだろう。最近のスポーティーなハッチバックやスーパーカーなどで当たり前になっている技術の数々を先取りした車を造ったのにもかかわらず、ジェンセン・モーターズが1970年代を生き抜くことはかなわなかった。先駆者が成功することは少ない。うまい汁を吸うのは、追従者なのだ。

オクタン日本版編集部

無料メールマガジン登録   人気の記事や編集部おすすめ記事を配信         
登録することで、会員規約に同意したものとみなされます。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事