ボディのペイント剥離が物語る奇跡の発見|バイヨン・コレクション「マセラティA6G 2000」

1956年マセラティA6G 2000グランスポール・フルア(Photography:Dirk de Jager)

2015年に公開されたバイヨン・コレクション──廃墟のような古城で長い眠りについていた車たち。その中でひときわ輝いていたのがマセラティA6G 2000だ。現オーナーの協力を得て、路上に引っ張り出してみた。

バイヨン・コレクションをご存知だろうか。フランスの古城で廃棄同然の姿で眠っていた100台以上もの車のことをこう呼ぶ。車はロジェ・バイヨンという男が半世紀ほど前に買い集めたもので、以来、人目に触れることなく時は推移、2014年になって公にされた。

古城を根城に56年間
アラン・ドロンが所有していたフェラーリ250カリフォルニア・スパイダーも、その中から発掘された1台である。"救出された"車たちは2015年のレトロモビルに出品、パリのオークションハウス、アールキュリエルの手でその場で競売に付されたというニュースは世界を駆け巡った。あれから2年、私は、フランスの田舎を離れてカリフォルニアに渡った車に出会うことができた。それがここにご紹介する、フルアのボディを架装したマセラティA6G 2000グランスポール・ベルリネッタである。件のオークションで、前述のフェラーリに続く2番目の高値、額にして200万ユーロ(現在のレートで約2億3400万円)で落札された車だ。見事落札したのは今、この車のステアリングを握り、風光明媚なカリフォルニアのカーメルを飛ばしているジョナサン・シーゲルである。

「いやあ、レストアしないでよかったよ。ペブルビーチで2位の栄誉をもらって初めて、あるがままの姿の車がどれほどの価値のあることかがわかったんだからね」とうれしそうにジョナサンは言う。そのときの1位もまた、あのフェラーリ250カリフォルニア・スパイダーだった(訳註:2015年、Class L: Postwar Preservation)。

「オークション中、私の入札額はトップだったんだが、私にはその額が出せる限界だった。だけど170万ドルまで上がっちまってね。もうだめだと思ったんだけれど、勢いで172万ドルまで入れたらそれで終了となったんだよ。私が落札できて、子供たちは狂ったように大喜びよ。うちは金持ちなんかじゃない、普通のファミリーだから、このあとどうしようかと思ったよ」

ジョナサンは成功している建築家だ。普通どころか裕福な部類に入る彼でも支払い金額は、我々の常識を大きく超えている。彼が古い車に手を出すのはこれが初めてというわけではない。マセラティが大好きで、過去にA6Gアレマーノをレストアしたこともある。今回はバイヨン・コレクションの存在を知り、そのロマンチックな話にぞっこん惚れ込んだというわけだ。

そのマセラティは1971年からずっと古城の納屋の中でフェラーリ250カリフォルニアの隣りに鎮座していた。この2台は、他の車が半分野ざらしの状態だったのに対して、石作りの建物の中に置かれていたため状態はよかったのだ。ただし、建物の前面に扉はなく、開放された状態だったので風雨から完全に守られていたわけではない。フェラーリのほうが状態がよかったのは、ボンネットやルーフの上に古雑誌や箱類が積み上げられていたためだ。マセラティには何も被せられていなかったので、写真で見るような痛々しい姿になってしまったのだ。

では、マセラティはずっとほったらかしだったのだろうか。答えはノー。ジャック・バイヨンは2000年になって、なんとか蘇らせようと決心した。マセラティに技術的な仕様書を送ってくれるよう手紙を書いているのだ。そして手始めにクラッチの交換を試みた。しかし作業を完了させるには至らず、トランスミッションの部品やバルクヘッドを外したところで終わっていた。車が発見されたときもそのような状態だった。本誌Octaneのグレン・ワディントンは最初に古城を訪れたひとりだが、彼はそのときの模様をこう語っている。「何が一番びっくりしたかといえば、フロントバルクヘッドがなかったことですよ。とてもいい状態だったとは言えなかったですね」

編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation:Hidehiko OZAWA Words:David Lillywhite Photography:Dirk de Jager

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