世界で一番有名なカスタムカーを作り上げた男の知られざる物語

さて、問題。ヴォン・ダッチ、ジェームズ・ボンド、1939年式マセラティ8CTFグランプリカー、そしてモンキース、インディ500……。これらに関係するものは? 答えは以下に… 

ホッドロッドにまつわる神話や伝説的人物は枚挙にいとまがない。ジョージ・バリス、ジーン・ウォンフィールド、ダリル・スターバード、アレックス・ジディアス、エド・イスケンデリアン。これらの卓越したデザイナー、ビルダー、エンジニア、ペインター、セルフパブリシスト。レーシングドライバーたちはいつの時代も魅力的だ。しかし、その経歴がおそらく最も変化に富んで多彩であるにも関わらず、名をあまり知られていない人がいる。それこそが、ディーン・ジェフリーズだ。



そして彼のリストには、ジェームズ・ガーナー、スティーブ・マックイーン、エルビス、ジェーン・マンスフィールドなど。ジェフリーズの友人や顧客だけでハリウッドの出席簿ができるのではないかと思うほど。だが、彼の功績は構成作家の作品以上に深く広いものだ。彼は本当に世界で一番有名なカスタムカーを、1939年マセラティ8CTFグランプリのシャシーから作り上げたのか?彼は本当にジャック・パッシーノ(フォード・レーシングプログラム責任者)からフォードGT40の109号車をもらったのだろうか?それもタダで?

答えはすべて「イエス」。

ディーン・ジェフリーズの仕事場はハリウッド・フリーウェイの端にある。ロサンゼルスの不動産としては主要な一角だ。ここが1960年代半ばからジェフリーズの拠点になっている。この土地は、何百万ドル出しても買いたいという申し出がたくさんあったにも関わらず、彼はすべてのオファーを断ってきた。なぜなら富と名声が彼の原動力なのではないから。ジェフリーズは自分の店、そしてそこにいること自体を楽しんでいるのだ。



ジェフリーズ本社の外観には若干ちぐはぐな印象を受ける。かつては心地よく周囲と馴染んでいたのだが、外の世界には何度も変化が訪れた。高速道路の騒音は絶え間なく、フォード・ファルコンやシボレー・インパラがマルボロの箱を踏みつぶして走っていた通りを、今ではプリウスのドライバーがiPhoneを弄りながら通り過ぎて行く。

だが、仕事場に一歩足を踏み入れるとそこは静まり返っている。グッドイヤーから漏れ出るシューッという音だけがガランとした空間に漂い、我々を迎え入れてくれるのだ。同世代の多くの成功者とは異なり、彼の功績を称えるものはほんの僅かしか飾られていない。左にはマセラティをベースにしたマンタレイ、そして右にはジェフリーズのGT40(わずか4台しか造られなかったロードスターのうちの一台)。



ジェフリーズ自身はというと、満面の笑みを浮かべた情熱家である。彼は1933年2月25日、カリフォルニア州リンウッドに、3人兄弟の二番目として生まれた。「私が子供の頃は、父親は整備士とトラック運転手の仕事をしていたよ」と、彼は仕事場の真ん中にあるスツールに座りながら言った。ジェフリーズは学校が好きではなかった。今でも何かしら悩まされている。「父親を通じて車のことを学んだけれど、

でも私はベタベタしたエンジンを触るのは好きじゃ
なかった。だからデザインや設計の道を選んだ。読むよりも描く方が好きだったからさ。ものごとを理解したり覚えたりするときには、それが役に立ったのかもしれない。」

トラックの運転と自動車整備の仕事に加え、ジェフリーズの父親は夜や週末にはアスコットパークやリンウッドといったサーキットで、ミゼットのレーシングドライバーとしても活躍していた。ディーンがレースの味を覚えたのもまさにそこだった。しかも、彼の家の向かい側には、1952年からのインディ500の勝者、トロイ・ラットマンが住んでいたのだ。

高校卒業後、軍隊に入隊してドイツへ派遣されたときに、彼のスケッチとデザインの才能が地図作者として開花する。さらに、家具やピアノにストライプペイントを施すドイツ紳士と知り合ったことにより、彼の幸運は更に続く。こうして、ジェフリーズのカスタムペイント人生は始まった。

カリフォルニアに戻り、機械工場での仕事をしながら彼は旋盤とフライス盤を使う技術を学んだ。覚えたカスタム技術を維持したいと思った彼は、ヴォン・ダッチことケニー・ハワードの元を訪れる。「私は学生の頃からケニーを知っていた。ケニーはコンプトンに、私はリンウッドに。同じエリア、今となっては同じ悪いエリアだな。彼はピンストライプのペイントを始めたんだ。私は彼からそれを学んだよ。それは当時としてはすごい出来事だったんだ。」

ピンストライプがジェフリーのビジネスの起点となり、すぐに彼はカスタマイザーのジョージ・バリスに注目されることになった。バリスはジェフリーズを説得して自分の店の隣に移転させ、その良好な関係は永く続いた。ディーンはバリスの店から出てきた車をペイントし、その車の多くは雑誌でも特集された。ジェフリーズの粘り強さと熱意が、ジェームズ・ディーンを始めとしたハリウッドの偉大な有名人の注目を集めだしたのも、バリスと組んでいたこの頃からである。



「その当時はそれほどすごい事だとは思っていなかった。ジェームズ・ディーンとはサーキットで普段から会っていたから。彼はスポーツカーが好きだったし、私もそうだった。」

その頃、ジェフリーズはポルシェを、ジェームズ・ディーンは550スパイダーを所有していた。ある日、ジェームズ・ディーンが自らを「Little Bastard(悪ガキ)」と言っていると聞いたジェフリーズは、その愛称とスパイダーのナンバー「130」をボディにペイントすることを提案。そしてその数週間後、ジェームズ・ディーンはクラッシュしてしまう。

編集翻訳:堀江 史朗 Transcreation: Shiro HORIE Words: Nigel Grimshaw Photography: Matthew Howell

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