伝説のドライバーが初めて手掛けたレーシングマシンの秘密

Photography: Paul Harmer 

ブライアン・リスター(1926年7月12日~2014年12月16日)は、1950年代に多くの優れたレーシングカー・シャシーを送り出した。その最初の例はジャガーのXKエンジンを搭載したリスター・ジャガーだろう。リスター・マセラティやリスターMGもある。また、北米のサーキットでは、シボレーやフォードのアメリカンV8ユニットを搭載したモデルが席巻した。

なんだこれは。誰もがそう思うことだろう。モーガン・スリーホイラーを四輪に改造したものか、エンジンをフロントに搭載したカートなのか。あるいは二輪と四輪チームのパーツを寄せ集めたのか。

寄せ集めどころか、シャシーに刻まれたナンバーが証明しているように、これこそ記念すべきブライアン・リスターが初めて手がけた車なのである。ブライアン・リスターが手掛けたマシンを駆ったドライバーといえば、アーチー・スコット-ブラウンでも有名だ。彼は生まれつき右手と両足に障害を抱えながら、優れた才能で数々の勝利を挙げた名ドライバーである。



スコット-ブラウンとリスターの絆を作り上げたのがこのレーシングカーだった。それだけではない。この車は歴史的にも大きな意味を持つが、実はこれはリスター製ではなかった。ブライアン・リスターの功績は、戦闘力が高い1.1リッターの二輪用JAPエンジンを組み合わせたことだ。

シャシーを製作したのは、当時リスターと同じケンブリッジに住んでいたジョン・トジェイロで、これが自身の名を冠した2台目の車だった。トジェイロはのちにこの拡大版を製作する。横置きリーフスプリングを使った独立懸架式サスペンションなど、シャシーコンセプトはすべてそのままに、フェラーリ166バルケッタ風のボディを架装した。そのデザインとコトジェイロはVツインエンジンを選んだンセプトを英国のAC社が買い取ってエースと名付け、やがてアメリカのキャロル・シェルビーの手によって、コブラに生まれ変わった。つまりコブラの出発点がこの車ということになる。

ジョン・トジェイロは、リスター家が経営するジョージ・リスター&サンズ社の鋼材を使ってこの先駆的なシャシーを作り上げた。おそらく通常の4気筒エンジンの搭載を想定していたのだろうが、リスターは空冷式V型2気筒エンジンのほうがよいと考えた。少ない重量とシンプルな構造で十分なパワーを得られると見抜いたのだ。レーシングカーだから、滑らかさや扱いやすさは二の次だった。

私はトジェイロJAPに試乗するサリー州ロングクロスのテストコースまで、フィアット500ツインエアでやってきた(同じ2気筒エンジンなので、耳慣らしになると思ったのだ)。

トジェイロJAPは、青みがかった鮮やかなメタリックグリーンだった。この色を選んだのはレストアした現オーナーのデビッド・リーだ。フロントの助手席側からリアにかけて覆う黒いトノカバーが全体を引き締めている。デビッドはこの車をブライアン・リスターが亡くなる2年ほど前に見せているが、その時、リスターは「私が造った時よりはるかに粋だ」と称賛したという。



車体は低く、チューブラーシャシーがボディパネルを細い鋼管の骨組み支えている。シャシーに刻まれたナンバーは"BHL1"、つまり"Brian Horace Lister 1"で、素材を造ったのはトジェイロだが、完成させたのはリスターということが明らかになる。完成してから数カ月後の1952年4月21日に"KER 694"という登録ナンバーを取得している。話をややこしくしているのは、リスターが1953年にも同じシャシーナンバーを使ったことだ。当時はお役所仕事ものんびりしたものだったのだろう。こちらは正真正銘リスター製のシャシーで、MGのエンジンを搭載したバルケッタ・ボディだった。登録ナンバーはMER 303。これがのちに"フラットアイアン"と呼ばれるボディを架装してリスター・マセラティとなった。

トジェイロJAPの姿は昆虫を思わせる。ひょろっとした足に胸部と腹部が挟まれているように見るからだ。左側にまとめられ後方へと続く排気パイプは触覚のようだし、正面の細いグリルは複眼か大あごのようにも見える。排気パイプが非対称なのは、2本のシリンダーが左右対称ではなく、同じ向きのまま60度回転した位置に配置されているからだ。

つまり、2気筒エンジンは二輪車のように横置きに搭載されているのだ(モーガンのスリーホイラーもJAPエンジンは横置きだ)。そのため、右シリンダーの上から出ているエグゾーストパイプは、エンジンの上を横断し、左フロントタイヤ後方で左右のパイプが交差している。エンジンを製造したJ.A.プレストウィッチ社の意図に反して90度回転した配置にしたことで、加速やコーナリング時にアマル製キャブレターが燃料切れを起こすため、その対策としてSUキャブレターのフロートチャンバーを組み合わせた。

この車をブライアン・リスターは「アステロイド」と名付けた。名著として知られる『Archieand the Listers』の中で、著者のロバート・エドワードがその誕生の経緯を記している。リスターがJAPエンジン搭載を思いついたのは、『Autocar』誌のある記事がきっかけだった。

誌面には「J.オンスロー・バートレットという人物が、JAPエンジンとジョウェット・ジュピターのギアボックスを組み合わせてトライアル競技用の車を造った」とあった。バートレットは、これを望む顧客用に専用のベルハウジングも製作していた。もっとも、これは非常に効果的だったが、「バルブがあっという間に消耗した」そうだ。



リスターは完成したアステロイドのパフォーマンスに自信を深め、満を持してケンブリッジ大学モータークラブのスプリントレースに出走した。すると、アステロイドと並ぶ速さで疾駆する"オンボロ"のMG TDがあった。それをドライブしていたのがアーチー・スコット-ブラウンだ。当時タバコのセールスマンをしていたスコット-ブラウンは、稼ぎをMGにつぎ込んでほとんど無一文だった。やりくりするために、エンジンビルダーでレーシングドライバーとして活躍していたドン・ムーアの下で働いていたのである。

リスターは自分より体重が軽く、ドライバーとしての腕も明らかに優れているスコット-ブラウンにトジェイロJAPのステアリングを任せることにした。迎えた1952年3月2日、ケンブリッジ大学オートモビルクラブのレースで、スコット-ブラウンはエントリーした750~1100㏄クラスで優勝したばかりか、その上のクラスでもトップになった。1952年はこのダブル優勝をさらに5回重ね、翌53年には6回、総合優勝も何度か飾った。ある時など、わずか5周のレースで全車を周回遅れにしたこともあった。

1953年にはドン・ムーアがエンジンをパワーアップしたが、その代償に信頼性を失った。そのため、リスターと妻のジョゼ、スコット-ブラウンの3人は、サーキットまでトジェイロを牽引していかなければならなかった。不思議なことに、バルブクラッシュを起こしたのは2回とも公道を走っている時だったのだ。どうやらトジェイロJAPを満足させるには、激しくドライブする必要があるらしかった。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words: John Simister 

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