フィアットの帝王が作り上げたフェラーリでイタリア国立自動車博物館へ行く

フェラーリ166MMトゥーリング・バルケッタ



しかし、国民が関心を寄せた理由は別のところにあった。アニエリは、1966年から祖父が共同で創業したフィアットの舵取りを任されたが、それ以前から、有り余るほどのカリスマ性の持ち主だったのだ。おそろしくハンサムで、そのファッションは非の打ち所がなく、常に注目の場所で、注目の人物とつきあっていた。生まれながらにして流行の仕掛け人だったのだ。崇拝者はアニエリの真似をして、シャツのカフスの上に腕時計をし、ブルックスブラザーズのボタンダウンシャツをあえて襟のボタンを外して着たりしたものだ。

そんなファッショナブルな若きアニエリが、フェラーリ166MMバルケッタを欲しがったのも当然といえる。その頃のフェラーリは淡泊なモデルが続いていたが、1948年のトリノ・モーターショーで発表されたこのバルケッタ(「小舟」の意)は、トゥーリングを率いていたカルロ・フェリーチェ・アンデルローニとスタイリストのフェデリコ・フォルメンティが生み出した、自動車史に残る美しいフォルムで注目を集めた。また、先行モデルより公道での走行に適していたこともあり、会社を引き継ぐまでの時間を持て余していた20歳代のリッチなプレイボーイにとって、まさに完璧な車だったのである。

だが、車を手に入れるのは簡単ではなかった。フィアットの経営陣は、お世継ぎが他社の、しかも人目を引くメーカーの車に乗ることを快く思わなかったのだ。そこでアニエリは、第三者を介して発注の手はずを整え、トゥーリングのワークショップを訪れる際は変装までした。クリーヴによると、アニエリがこの車と一緒に収まった写真は、ずいぶん探したが見つかっていないという。こうして、25台製造されたフェラーリ166MMトゥーリング・バルケッタの24台目、シャシーナンバー0064Mは、1950年7月にアニエリの元に届いた。ダークブルーとダークグリーンのツートンカラーや、リアの涙滴型ライト、特注のダッシュボードなどは、すべてこの車だけの特別仕様だ。

トリノを走る
おそらく166MMでトリノの市街地を走ることはアニエリも避けたのではないだろうか。戦後まだ交通量の少ない時代で、ナットもボルトもリベットも全部緩んでしまいそうな石畳の道が多かった。また、今はほぼノンストップで動いている電動のラジエターファンも当時は備わっていなかった。ギアボックスも(現代人にとっては)やっかいな代物だ。5段のうち、上の3段はシンクロメッシュを"標榜"してはいるものの、シフトアップもシフトダウンも毎回ダブルクラッチが必要で、それでもガリガリと唸ることが多い。

私たちは、街の中をまっすぐに走る谷間のような細い路地を進んでいった。2.0リッターの小ぶりなV12エンジンの音が両側の建物に反響する。これを聞いたら、どんなに不機嫌な堅物でも思わず笑顔になるに違いない。街中を走ると、この車の小ささがよく分かる。全長はフィアット850スパイダーとほぼ同じで、コクピットのサイドはほぼ腰の高さだ。

サン・カルロ広場からゆっくり走って、広々としたヴィットリオ・ヴェネト広場へやって来た。過去200年にわたってパレードや祭典の舞台となってきた場所だ。そこからアニエリの豪華なタウンハウスへ向かう。現在の住人のプライバシーに配慮して住所は記さないが、"無冠の国王"だけあって、かつての王宮から歩いて数分のところにあった。次は街を出て、トリノの南西にあるヴィラール・ペローザに足を伸ばす。そこにあるアニエリ家の屋敷を探そうと考えたのだ。クリーヴが愛想よく住民に話しかけ、例の魔法の言葉「E la prima Ferrari di…」を繰り出すと、屋敷はあっけなく見つかった。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO(Mobi-curators Labo.)原文翻訳:木下恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Dale Drinnon Photography:Martyn Goddard

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