ヴォアテュレット E.R.A. | JACK Yamaguchi's AUTO SPEAK Vol.11

E.R.A.社を買収したレスリー・ジョンソンのE-type。ドニングトン・グランプリ・ミュージアム。(John Chapman Wiki)

「イギリスには英語、そして高度に専門化された技術と技術者なる財産が残っている」─アレックス・モールトン

正しい英語と情熱
ミニなどのサスペンション開発者、アレックス・モールトンと夕食後のソーダ割り(サイフォン)ウィスキー、そして柿の種を肴に夕食後の歓談中のときだった。

40年間にわたる交友ゆえ、いささか不躾な質問も許してくれるだろう。「なぜイギリスの民族系量産メーカーが消滅したのか」と私は問うた。これにアレックスが答えた。「政治家、特に労働党(彼は生粋の保守党)、投資家たちのせいだ。しかし、イギリスには財産がある。英語、そして高度な専門技術と技術者たちだ。F1、スポーツレーシングなど、構想と開発の大半はイギリスで、イギリス人により成されている」

モールトンの観察は、1930年代、リンカンシャーの町、ボーンの邸内に設けた工房で働き、製作したレーシングカーを走らせた青年たちに当てはまる。羊毛商の嫡男で、家業に勤しんでいたレイモンド・メイズは、数人の友人とモーターレーシングに熱中した。彼らの弁舌と熱意は、1920〜30年代の英仏メーカーのトップを動かす。

メイズと友人ハンフレー・クックがエットーレ・ブガッティを訪問したこと。"ル・パトロン"がメイズのレースで疲れ切ったT-13ブレシアをフル整備し、その上、T-13新車1台を寄贈したというエピソードを私は、前回に紹介した。これには嬉しい余話がある。川本信彦少年は、父が取り寄せた書籍、『驚異の本_自動車』中で、後輪が外れ、それが車を追い越していく写真が記憶に残ったという。後に川本少年は、卓越したエンジン設計者を経て本田技研工業の社長となる。貴重な蔵書と、2台目T-13"コルドン・ブルー"を駆るメイズの驚きの顔は一見の価値がある。

メイズの盟友となる天才エンジン設計者ピーター・バーソンは、英空軍士官候補生だったが、技術教育は受けていない。メイズは、バーソンに家業羊毛業を共同経営しながら、モーターレーシングを続けようと提案し、バーソンはメイズが駆るヴォクスホール、インヴィクタ、メルセデスなどをチューニングした。

彼らのメルセデス・タルガフローリオが見せた好成績に印象付けられたシュツットガルトは、最新の8気筒車をメカニック付きでリンカンシャーの田舎に送り込み、チューニングを依頼したほどだった。

1932年の冬、メイズとバーソンは、メイズの愛車ライレーに乗り、羊毛ビジネスのためにバーミンガムに出張したその車中での会話は、ライレーの最新型スポーツ・モデルに搭載されていたOHV直列6気筒1.5リッターエンジンのレース用としての可能性であった。その帰路、ふたりはコヴェントリーのライレーを訪ねた。アポイントなしの訪問だったが、メイズによる"上流階級英語"の熱弁が社主ヴィクター・ライレーを動かした。チーフエンジニアであった弟のパーシー・ライレーが参加し、バーソンが設計したシリンダーヘッドをつけたレーシングエンジン製作にかかる。これが、メイズの"ホワイト・ライレー"となり、スプリント、ヒルクライムで好成績を収める。このエンジンが、単座オープンホイール・レーシングカー、E.R.A.に搭載される。

すでに多くの純レーシングエンジンには、オーバーヘッドカム、4バルブヘッドが用いられていたが、ライレー/バーソンE.R.A.は、OHV直列6気筒だった。高い位置に置かれた吸・排気2本カムシャフトが、短いプッシュロッド、ロッカーを介しバルブを駆動する。クランクシャフトは、両端プレーン、センターがローラーの3ベアリング支持だが、高剛性箱形鋳鉄シリンダーブロックが高回転を可能にした。

バーソン・シリンダーヘッドには、スーパーチャージャーで名を成し、E.R.A.に加わっていたマーレイ・ジェイミソン設計のルーツ型過給器と、SU気化器が圧縮混合気を送り込んだ。ホワイト・ライレー期に1.5リッターエンジンは、すでに147hp/6500rpmを出していた。

文、写真:山口京一 Words and Photos:Jack YAMAGUCHI

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