関係スタッフたちが語るランボルギーニ・ミウラ誕生のころの物語

Images: Octane UK

1966年、ミウラはかつてないほどのセンセーションを巻き起こした。ここでは、 このマシンに関わった人物たち自身の物語を紹介しよう。

Gian Paolo Dallara ジャン・パオロ・ダラーラ



1963年、私は27歳の頃にランボルギーニでの仕事を始めた。それまでにフェラーリとマセラティに1年間ずつ在籍したことがあった。新任のチーフデザイナーとして最初に担当した車は350GTだった。美しい車だったが、それだけではフェルッチオ・ランボルギーニのフェラーリに対する個人的な戦いに勝つには不充分だった。私たちはフェラーリより先に4カムエンジンを搭載し、独立式リアサスペンションも同様に先だった。サンターガタではなにか本当に特別なものを造る必要があるのだと、誰もが分かっていたからだが、こうした理由で、急進的で最新の技術的解決策を求め続けていた。

V8エンジンをミドシップに搭載したフォードGT40にその未来性を感じた私たちは、まず3 シーターで350GTや400GTのエンジンをミドに載せた車を検討し始めた。私たちの12気筒はアメリカ製V8よりも長かったので、ホイールベースを短く保つため、横向きに置くことにした。そのためクランクシャフトは時計回りとは逆の回転にせざるを得なかった。この技術的解決法は、ミウラにおいて他のなによりも大変な課題となった。フロントの縦置きから、ミドの横置きにするため、多くのパーツを新たに考案することが必要になったからだ。

当時は、計算ツールなどなかったので、経験がすべてだった。しかし、私たちは皆とても若く、ディストリビューター、オイルポンプ、ウォーターポンプ、トランスミッションをどうやって作り変えるかを、なんとかして考えなければならなかった。まずは、ランボルギーニのトラクター部門で培われた、マルチプレートクラッチを直接ギアボックスにつなげることから始めた。しかし、これは公道で使うには騒音がひどく、デリケート過ぎた。しかもあまり斬新でもなかった。もうひとつの解決法は、エンジンとギアボックスのオイルを共用することに。これはよいアイデアで、最初はなんの問題も起きなかった。

最初のシャシーに使った鋼板はそれほど高張力ではなかったので少々厚めの板厚にしたが、重量はあまり増やしたくはなかった。また、市街地で使われる際の冷却の問題を解決する必要もあった。誰にとっても、水温が問題だった。ラジエターなどは、現代のものよりはるかに効率の点で劣っていたからだ。

私が後悔しているひとつの失敗がある。それは前後輪に同じサイズのホイールを装着してしまったことだ。リアには大きいサイズのホイールを履かせることも考えたが、止めてしまった。それではタイヤがパンクした際に困るだろうと思ったからだ。だが、スペアホイールを持たない現代のスーパーカーを見る度に、今でも心苦しく思う。

トリノ・ショーにシャシー単体を展示した際、ベルトーネはフェルッチオ・ランボルギーニに、"ショーで一番美しい車"にしたいと伝え、その時、二人はパートナーになることを決め、この新しい車のボディを造ることになった。初めてボディのスタイリングを見たときのことは、今でもよく覚えている。その冬には、ガンディーニが描いた最初のデザインを見に行った。まだフロントとリアのデザインと、インテリアの白黒スケッチだけだったが、私たちは、それをそのまま最終版にすることに同意した。なぜなら、その姿はとにかく完璧だったからだ。ミウラは正に"ベリッシマ"(最も美しい女性の意。1951年の映画のタイトル)だった。私はミウラこそが現代に続くランボルギーニのビジョンを形づくったと信じている。



私たちは、その頃までフェラーリの後塵を拝していた。しかしミウラ以降、フェルッチオ・ランボルギーニは車の製造者として、競合他社からも認められ、彼の造る車は技術的に最も進んでいると見なされるようになった。美しいミウラは販売も好調で、それは私たちがいた技術部門にとってもよいことだった。品質に少し欠点があっても許されたからだ。実際のところ、私たちは全員、経験が乏しかった。私が4~5歳だけ年上の最年長のひとりだったし、発売後ですらまともなテストカーを用意していなかったほどだ。ミウラは完成したとたん、少し試運転されるだけで販売された。

フェルッチオ・ランボルギーニの友人で、ミラノのオフィシャルディストリビューターだったジェリーノ・ジェリーニが、イタリアで最も高級なマウンテンリゾートであるコルティナでのショーに初期のミウラを持ち込んだとき、私たちは不安で仕方がなかった。寒冷地での始動テストを一度もしていなかったからだが、彼が長い受注リストを持って帰ってきたときには心から喜んだ。

開発担当ドライバーのボブ・ウォーレスとロベルト・フリニャーニ(エンジンテストのエンジニア、トラクター部門から来たメカニック)が、モナコGPでミウラを披露するため、モンテカルロへ向けてサンターガタを自走で出発したときのことも覚えている。他の誰もがミウラがそんな長距離を走破できるかどうか分からなかったので、やってみるしかなかった。彼ら自身もそういったことは未経験だった。それで彼らは、クラッチプレートのフルセットをいくつか積んで行った。モナコ行きに使った車は"時計回りのエンジン"で、まだまだ開発途中のものだった。しかし、サンターガタの誇り高き若者たちの小さな製作チームは、夢を世界に知らしめたくて仕方がなかったのだ。

ミウラのエンジンは、構造上からいえばルーツはマセラティのF1用ユニットで、ジョット・ビッザリーニのオリジナルプロジェクト版の「孫」にあたる。しかし彼のエンジンは極端なレース向けスペックだったため、350GTと400GTの製造開始前にデチューンする必要があった。パオロ・スタンツァーニのほか、オリヴィエーロ・ペドラッツィとアキッレ・べヴィーニ(ともに元アバルト)が、エンジンに関するすべての作業を行った。

ランボルギーニ社内でミウラを開発するチームの一員になれたことは、個人的には幸運だったと思っている。近代的なGTカーの創り方を身につけられたし、SVが出る少し前に私がデ・トマゾに移った後もそのアイデアは役に立った。私はレースがしたかったので、フォードがパンテーラでデ・トマゾと組んだとき、自分のキャリアを伸ばすのに最適だと思って移った。しかし、ランボルギーニとミウラが存在しなかったら、私ジャン・パオロ・ダラーラの人生はまったく違うものになっていたと今でも思う。


編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO(Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:東屋 彦丸 Translation:Hicomaru Interviews by Massimo Delbo

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