ヴォアテュレット E.R.A.からBRM | JACK Yamaguchi's AUTO SPEAK Vol.10

1934 E.R.A.R2A第1世代A型。2008年の仏モンレリー・イベント。(Wiki Simon Davidson photo)



E.R.A. A to D
1920〜30年代の現在のF1に相当するグランプリ規則は、猫の目のように変わった。英車の最後の勝利は、2リッター規則時期の1923年フランスGPであった。サンビームが1、2、4位を占め、勝者はイギリス人のヘンリー・シーグレイヴ(後にサー称号受勲する)であった。

E.R.A.は1 1/2リッターになることを願っていたが、1934年規則は最小重量750kgというウエイト・フォーミュラ実施となる。いずれにせよ、1930年代後半は、ナチス・ドイツの国策に沿ったダイムラー・ベンツとアウトウニオンの最先端技術を満載したGPマシンが圧倒的威力を発揮する。E.R.A.にとっては欧州のヴォアテュレットに属したのが幸運ともいえる。

E.R.A.はAからG型まであるが、EとGは別世代、別組織だ。基本的にはA、Bで、CとDは新型車ではなく、改良版だ。大陸のマシンに対し、ヴィンテージといえる古典的なFR車で、鋼板チャンネルの梯子フレーム、前後ともに縦置きリーフスプリングとリジッドアクスルである。エンジンは、ライレー製直列6気筒ベースの一見DOHC風だが、ブロックの高い位置に配した吸・排気2本のカムシャフトと短いプッシュロッドとロッカーアームが作動するOHVで、バルブ挟み角90度、半球形燃焼室を継承した。スーパーチャージャーで有名なメイズ、バーソンの友人、マーレイ・ジェイミソンは、クランクシャフトの権威でもあった。彼は、原型となったライレーの3ベアリング組立式クランクシャフトでも、鋳鉄箱形ディープスカート・クランクケースでしっかりと支持すれば、充分に高回転・高出力に耐えると判断した。なお、センターベアリングはローラー、両端はメタルだ。トランスミッションは、アームストロング・シデレー製プリセレクター型である。

1 1/2リッターがメインで1100ccフォーミュラ用、そしてヒルクライムとGP出場の可能性がある2リッターを設定した。

最初の年、1934年は成否こもごもだった。ヒルクライムと、メイズ自身のSS 1km世界記録樹立が成功だ。メイズとバーソンは、1935年シーズンはワークス活動に専念したかったが、社長のクックが英国の威信を問う計画であり、プライベートドライバーに販売するのは当然の義務と主張し、そのために増資を決定した。シーズン初半の成績はパッとしなかったが、マン島1100ccレースでは、「私の力量相応」と1100ccを購入した南アフリカ出身のパット・フェアフィールドが優勝した。次のレース、ニュルブルクリンク・アイフェルレンネンはヨーロッパの強豪が集う大イベントだった。メイズ、クック、ティム・ローズ・リチャードの3台のワークスE.R.A.と、プライベートのリチャード・"ディック"シーマン車が出場。メイズが優勝した。英国歌"ザ・ゴッド・セイヴ・ザ・キング(ジョージV世期)"が演奏され、ナチス親衛隊長がメイズの首に巨大な月桂冠をかけた。他のE.R.A.が3、4、5位フィニッシュする成果であった。

余談だが、E.R.A.で国際レースに参入したディック・シーマンは、メルセデス・ベンツに才能を認められ、シルバーアローのワークスドライバーになる。彼は1938年ドイツGPで優勝、ニュルブルグリングにふたたび英国歌が響き、ナチス高官がシーマンに月桂冠を与えた。

ここでひとりのプライベートE.R.A.オーナー/ドライバー、そしてアジア人最初のグランプリ・ドライバー、プリンス・ビラを紹介せねばならぬ。1914年生まれで1985年に逝去したので、私はお会いしたことはないが、ふたつの小さな奇縁があった人物だ。ADO15ミニなどのサスペンション、自ブランド小径輪自転車構想設計者、故アレックス・モールトンのケンブリッジ大学時代の自動車レーシングクラブのメンバーがシャム王国(現タイ国)ビラボングセ・"ビラ"王子であった。クラブレース・パドックでアレックスとビラ王子、背後の富豪貴族グロヴナー卿令嬢の写真がある。アレックスは祖母から借金をして手に入れた中古のオースティン・セヴン・スピーディに乗るが、ビラ王子とレディ・グロヴナーの車名は聞きそびれた(スピーディより高価なのは間違いない)。

今年5月、第2の奇縁に恵まれた。私が東京青山で開催されたモールトン・バイシクル・クラブ展示会トークショーに出た際、会場で会ったのタイのM.リッター・スバカタイ・チュムバラ氏で、ビラ王子は大叔父に当たる。彼が送ってくれたのが、ビラ王子著の"BITS AND PIECES"、『その他もろもろ』1947年第6版である。第二次大戦中1942年が初版で、全版が「戦時経済出版基準」適合している。英国には戦時中にモーターレーシング本を重版する余裕があったのだ。

1935年シャム王国チュラ王子は、いとこのビラ王子誕生日を祝い、E.R.A."ロミュラス"を贈った。

1936年のモナコで開催されたレニエ大公カップでは、E.R.A.が1-2-3フィニッシュしたが、激闘の末、ワークスカーのレイモンド・メイズを抑え優勝したのはビラ王子が乗る"ロミュラス"であった。チュラ/ビラ2王子の"ホワイト・マウス"チームは、さらに2台のE.R.A."レマス"とR5B"ハヌマン"を買っている。ハヌマンは、シャム神話の神聖な猿で、グリルにはその像エンブレムは付けられている。他の2台の名は、ローマ神話の雌猿に育てられた双子の英雄である。

ビラ王子のE.R.A.ハヌマン。グリル上にシャム神話の神聖猿エンブレム。ビラ王子は、このほか2台のE.R.A.を所有してレースに出場した。前後の板バネとリジッドアクスルが判る。(KY)

文、写真:山口京一 Words and Photos:Jack YAMAGUCHI

無料メールマガジン登録   人気の記事や編集部おすすめ記事を配信         
登録することで、会員規約に同意したものとみなされます。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事