ヴォアテュレット E.R.A.からBRM | JACK Yamaguchi's AUTO SPEAK Vol.10

1934 E.R.A.R2A第1世代A型。2008年の仏モンレリー・イベント。(Wiki Simon Davidson photo)



ピーター・バーソンとの出会い
転機は1926年に起きた。メイズは英空軍候補生の友人の紹介で、同じく候補生であったピーター・バーソンに会い、意気投合した。バーソンこそメイズのE.R.A.とBRM計画および事業化における盟友となる人物だ。バーソンは空軍パイロットの資格は持つが、正規の技術教育は受けていないものの天与の技術才能を有した。メイズはモーターレーシングにおいて、バーソン以上のハートナーは現れないと確信し、共にメイズの家業羊毛業を運営し、そのかたわらレース活動を続けようと提案した。メイズ、バーソンの友であった空軍候補生が事故死し、バーソンもクラッシュで長期療養を余儀なくされた。この時間がふたりのレーシング計画を固めた。バーソンは空軍を退役し、羊毛業を営みながらレーシングエンジニアとなる。彼の最初の仕事は、メルセデス・ベンツ2リッター"タルガ・フローリオ"のチューンナップであった。メイズが駆る白いメルセデスは英国内のイベントで好成績をおさめ、シュトウットガルトがワークスメカニックの大群を送りこむ支援をした。

その後、メイズ・バーソン・チームは、ヴォクソールやインヴィクタで活動するが、さして成果はなかった。1932年まで、ふたりは羊毛業に励んでいたが、春に商用でメイズの小型車ライレーに乗りバーミンガムに出かけた。車中の会話は当然モーターレーシングで、ライレーの新型スポーツ・モデルのレーシングカーとしての可能性で意見が一致した。ふたりは、帰途、コヴェントリーのライレー社の門をくぐり、ヴィクター・ライレー社長の面会を求めた。このあたりも英国上流階級の行動と説得力だ。バーソンの提案は、新型1 1/2リッター直列6気筒をチューンし、オーストリア人ドライバーのハンス・シュトックに奪われていた英国の名物ヒルクライム、シェエルズレイ・ウォルシュの記録を奪回することだった。ライレーは興味を示し、エンジン改造計画を討議した。

1933年、メイズの駆る"ホワイト・ライレー"は、見事にシュトックの記録は破るが、新記録の方はこのイベントに特化したマセラティ3リッターが樹立した。この年シーズン終末までには、ホワイト・ライレーは、英国最速の1 1/2リッターレーシングカーの名声を得た。

翌34年シーズン準備に入ろうとしていた時、メイズの元に親友で富豪実業家レーシングドライバーのハンフリー・クックから書状が届いた。彼はホワイト・ライレーの成果に深く印象づけられ、英国を代表するレーシングカー製作会社設立を提案してきた。クックはメイズの経済事情を考慮し、新会社の資本の大半を負担し、メイズとバーソンの投資は、形式的に2ポンド10シリングでよいと提案した。社長取締役がクック、取締役技術担当がバーソン、取締役ワークスドライバーがメイズという布陣だった。社名は、理念通り、"イングリッシュ・レーシング・オートモービル"の頭文字を取って"E.R.A."とすることになった。かくして、メイズ家がこれも形式的低価格で売却した邸内敷地に工場を持つ新会社が発足した。

文、写真:山口京一 Words and Photos:Jack YAMAGUCHI

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